第7章 あなたのことは知っている、江口さん

翌朝、江口初姫は驚くほど晴れやかな顔で目を覚ました。

一晩じゅう、最高の夢を見ていたのだ。周防家とつながり、協力関係を築いて足場を固め、柳川家を正しい道へ導いていく――そんな未来。

起き上がる瞬間でさえ、口元が緩む。頬に艶、目に光。まるで昨日までの疲れなど嘘みたいに、全身が生き生きとしていた。

周防宴久と握手を交わし、肩を並べて仕事を進める自分。成功者然とした姿で、音無真など軽々と置き去りにしていた。

周防家の掌権人と深く組める夢――それが吉兆でないはずがない。

だが、その明るさが、音無真の神経を容赦なく逆撫でした。

彼はほとんど眠れぬまま夜を越え、江口初姫が後悔して縋ってくる瞬間を待ち続けた。結局、何ひとつ起きない。むしろ機嫌よさげに笑っている。

苛立ちを隠せず、音無真は朝一番に鼻で笑い、踵を返して出ていった。朝食にも手をつけない。

執事が慌てて追いかける。

「若様、車の中で召し上がれるように――」

「放っておけ。食う食わんは勝手だ」

音無爺様は視線すら向けず、執事に別の指示を飛ばした。

「厨房へ行って、はつの羹を持ってこい。女の子は栄養を取らんとな。顔色が変わる」

江口初姫は微笑んで礼を言い、音無真の背中は見もしない。

「ありがとうございます。お爺様も、たくさん召し上がってください。お身体が元気でこそ、ずっと健やかでいられますから」

二人は昔話をしながら食事を続け、別れ際、江口初姫は音無爺様に念押しするように言った。

「無理はなさらないでくださいね。養生のレシピ、いくつか良いものがあります。あとでお渡しします」

それらは、前世で音無爺様のために集めた処方だ。

どうせ自分はここへ嫁がない。なら、早く渡してしまっても構わない。

幸い前世の音無爺様は、長く健在だった。少なくとも江口初姫が死ぬその時まで、ずっと変わらずに。

音無家を出た江口初姫は、そのまま自宅へは戻らず会社へ向かった。

このところ密かに引き寄せてきた腹心たちへ連絡を入れる。中でも、いま目の前に立つ秘書――佐川蘭の存在は大きい。

柳川家での江口初姫は、まだ「外から来た人間」だ。社内の地盤も情報も足りない。佐川蘭がいるからこそ、ようやく足を止めずにいられる。

「頼みがあるの」

江口初姫は考え込みながら、指先で机を軽く叩いた。前世の記憶をたぐり寄せ、言う。

「周防家が近々、南山別荘で投資の席を設けるって聞いた。裏で調べて。周防宴久が本人で来るかどうか」

「誰にも気づかれないように」

佐川蘭は訝しげに眉を動かした。周防家とこちらに、表立った付き合いはない。

だが余計なことは聞かない男だ。淡々と頷くと、すぐ動いた。

半日も経たぬうちに、暗号化されたメールが届く。添付は南山別荘の招待者リスト。

特別招待の筆頭に――周防宴久。

金箔押しの大きな文字で、最上段にひときわ目立って記されている。

江口初姫は静かに息を吐いた。

覚えている通りだ。ここでつながれれば、周防家と取引の糸口ができる。

信頼など贅沢は望まない。ごく普通の協業に漕ぎつけられるだけでも、今の自分には十分すぎる追い風だ。

当日、江口初姫は約束の時間ぴったりに南山別荘の門前へ立った。

手には招待状。警備に軽く微笑みかけ、自然な所作で頷く。足取りは迷いがない。

佐川蘭はどこか落ち着かず、いつもの無表情に僅かな陰りが走った。

「……見抜かれたら、どうするんです」

「何が?」

江口初姫はきょとんとした顔で返す。

「招待状、偽物じゃないでしょ」

佐川蘭は言葉を失った。

偽物ではない。だが、江口初姫宛てでもない。探偵に大金を払って買い取った――他人の招待状だ。

それなのに彼女は、まるで自宅のリビングへ入るみたいな顔をして歩く。佐川蘭のほうが現実感を見失う。

「――しっ」

江口初姫は急に足を止めると、佐川蘭の腕を掴んで柱の陰へ引き込んだ。すう、と一度深呼吸してから肩をぽんと叩く。

「入った以上、佐川補佐は仕事して。投資先、できるだけ拾って」

そして自分は――完璧な笑みを作り直し、狙ったタイミングで柱の外へ出た。

その瞬間、通りがかった男とぶつかりそうになる。

「あっ……すみません、すみません……周防さん」

顔を上げた先にいたのは、周防宴久だった。

長身に、すらりとした脚。近寄りがたいほど洗練された気配。冷たい尊さを纏い、長い眼差しが淡くこちらを撫でるだけで、心臓が一拍遅れる。

準備していたはずなのに、江口初姫は一瞬だけ言葉を失った。すぐに半歩退き、落ち着いた笑みを取り戻す。

「お噂はかねがね。まさかここでお会いできるなんて」

手を差し出し、名乗る。

「江口初姫です――」

「知っている」

周防宴久が淡々と口を開く。薄い唇、冷えた眼差し。けれど、その声音だけは不思議に穏やかだった。

「柳川家の江口さんだな。奇遇だ」

江口初姫はその場で固まった。差し出した手が宙で止まる。

――前世では、音無真と式を挙げてから、披露宴で初めて会ったはずだ。

その後の、周防宴久のさりげない助けも、音無家が絡んでいたからだと――そう思っていたのに。

頭の中が、かちりと噛み合わない。

周防宴久は彼女の戸惑いを見ても苛立たず、目の奥にかすかな笑みだけを走らせると、軽く頷いた。

「では」

離れようとする。

「待って!」

江口初姫ははっと我に返り、咄嗟に彼の袖を掴んだ。

周防宴久が振り返る。冷ややかな視線が、掴んだその手へ落ちた。

江口初姫は熱いものに触れたように手を引っ込め、改めて営業用の完璧な笑顔を貼り付ける。

「周防さん。五分だけください。取引の提案があります。後悔はさせません」

前世で何度も助けられた恩がある。あの事故だって、どう考えても不自然だった。せめて、気づいたことは伝えたい――。

だが、周防宴久が答えるより早く。

宴会場の扉が、再び開いた。

入ってきたのは――音無真。

江口初姫は背を向けているから気づかない。だが音無真は、一目で状況を飲み込んだ。江口初姫が周防宴久へ伸ばした手、その仕草。

周防宴久の温和な気配が、すっと冷えた。

江口初姫が音無真と婚約していたことも、揉めているらしいことも知っている。

――子どもじみた当てつけか。

周防宴久は嘲りを目の奥へ隠し、江口初姫に軽く頷くだけで言い捨てる。

「また」

冷淡に去っていった。

江口初姫は訳が分からず、呆然と立ち尽くす。

振り返った瞬間、眉間に皺が寄った。

「……なんであなたがここにいるの」

音無真が冷たく返す。

「それはこっちの台詞だ」

そして、嘲るように続けた。

「もう次の目標か。だが周防さんはお前を見もしなかったな。招待されてもいないのに潜り込んでも無駄だ」

江口初姫が反論する前に、音無真は声を落とし、陰湿に言った。

「教えてやる。俺に泣きついてくるな。公に謝罪して、俺が満足するまで――音無家の門は二度とくぐれない」

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