第8章 彼の運命を改めて書き換える

音無真はこのところ、江口初姫の前で何度も鼻をへし折られていた。

だからこそ――ようやく江口初姫が肩を落として引き上げていく姿を見た瞬間、胸の奥がすうっと軽くなる。

思わず、追い打ちをかけるように嘲った。

「……それとも、自分じゃ周防さんに触れる資格がないって分かってて、俺がここにいるって知ったうえで見せつけに来たのか? まだ懲りずに小細工でも続けるつもりか?」

江口初姫は、訳が分からないという顔をした。

小細工? 何の話だ。

いまの彼女には、音無真がこれまでになく目障りだった。なんでこの男が、こんな絶妙に邪魔なタイミングで現れるのか。周防宴久をつかまえるチャンスが、また遠のいた。

「……ふん」

音無真は鼻で笑い、背を向けた。

――江口初姫みたいな平凡な女、周防さんが何度見たって覚えるはずがない。

周防宴久に近づいて俺を嫉妬させる? そんな浅い手が通じる相手じゃない。

その音無真の脳内など、江口初姫が知る由もない。

周防宴久を逃してから、彼の姿は二度と見えなかった。

当然だ。周防家は別格の名家で、周防宴久はその中でも「特別」の人間だ。顔を出しただけでも十分すぎるほどの礼。会場にいつまでも留まる理由なんてない。こちらがもう一度近づける確率のほうが低い。

「最悪……!」

江口初姫は苛立ちを噛み殺しながら会場を後にし、胸の中で入場券の値段を思い出してさらに気分が沈んだ。

――なんで、あそこで取り逃がしたの。

車を出した佐川蘭が、やれやれと首を振る。

そして名刺を数枚取り出し、彼女に見せた。

「とはいえ、丸損ってわけでもありません。合作に興味がある会社に何社か繋げました。意向が強いところもありますし、うまく詰めれば契約までいけるかもしれません」

「佐川蘭……」

江口初姫はしみじみ息を吐き、わざと大げさに肩を落とす。

「あなたがいないと、私ほんとどうすればいいの。将来、辞める気になったら先に言ってね。いまの私じゃ、まだ柳川家を完全に取り戻せないから」

場を和ませるつもりの冗談だった。

けれど、その瞬間、佐川蘭の表情がすっと硬くなる。

バックミラー越しに、眉を寄せて真剣に言った。

「小姐。俺は昔、あなたのお爺さんとお婆さんに支援していただいて、ようやく学業を続けられました。いまがあるのは、その恩があってこそです。入社した日から柳川家に忠誠を誓っています。そんな心配は不要です」

江口初姫は、少しだけ黙った。

次いで、こちらも冗談の顔を引っ込め、きちんと頭を下げる。

「……ごめん。疑ったわけじゃない」

胸の奥がじんと温かくなる。

この数週間、佐川蘭の助けは本当に大きかった。

会社に戻ると、江口初姫は佐川蘭を帰し、ひとりで車を出した。向かったのはバー。

そして神谷柊を呼び出す。

意気揚々と現れた神谷柊を見た途端、周防宴久を取り逃がしたことが、またずしんと重くのしかかる。

「最近、ついてない」

「いいじゃん」

神谷柊は軽く首を振り、むしろ祝うように言った。

「音無真と縁を切るって決めたんでしょ? だったら今の不運は『清算』だよ。底まで落ちたら、あとは上がるだけ」

そのまま畳みかける。

「いまのツキのなさは、あんたが音無真と婚約した代償。完全に振り切ったら、悪運なんて勝手に消えるって」

江口初姫は思わず吹き出した。

「つまり、音無真って疫病神? 私の不運、全部あいつからうつったってこと?」

「当然」

神谷柊は即答した。

彼女の中で、江口初姫は最高の友達だ。突然の婚約破棄だって、音無真が取り返しのつかない何かをしたに違いない――そう確信している。

神谷柊は目をきらりとさせ、ひそひそ声になる。

「ここ、初めてだよね? 待ってて。『看板』出させる。いいのばっかだから」

言いながら、やけに含みのある顔でこちらを見てくる。

江口初姫はすでに数杯飲んでいて、頭がふわふわしていた。深く考えず頷く。

ただ視線だけは、ぼんやりと遠くへ流れる。

「……あの人。周防宴久じゃない?」

目を細めて確かめている間に、神谷柊が店長と何やら打ち合わせていることなど、まるで気づかなかった。

次の瞬間、江口初姫はがたっと立ち上がる。

間違いない。あれは周防宴久だ。

――縁だ。今日は絶対に逃さない。

ふらつきながらも足を向ける。

「周防宴久!」

「え?」

神谷柊が慌てて腕を掴んだ。

「初姫? ちょっと待ってってば、看板来るから!」

江口初姫がぽかんとした、その瞬間。

神谷柊がぱん、と手を叩いた。

わっと現れたのは、長身で脚の長い男たちが十数人。雰囲気もタイプもばらばらで、江口初姫を囲んで一斉に声をかけてくる。

「江口さん、楽しませます」

「今夜は嫌なこと、忘れましょう」

神谷柊は満足げに目を細め、江口初姫へ目配せした。

「全部トップ」

それから急に真顔になり、男たちへ命じる。

「江口さんを全力で楽しませて。今夜は絶対に笑わせて!」

どっと押し寄せる甘い声。

江口初姫は、次々注がれる赤ワインに目を丸くした。

――これが、看板?

周防宴久どころじゃない。

気づけば神谷柊の姿は消えていて、江口初姫は半泣きで包囲を抜け出した。

バーの角。

店のオーナーが恭しく先導しながら、周防宴久を奥へ案内していた。周防宴久は拐角でふと足を止め、視線を流す。

そこに見えるのは、若い客たちが騒いでいるだけのボックス席。

オーナーは愛想笑いを浮かべる。

「周防さん、ご安心ください。うちは健全なお店です。もし外で遊びたいのでしたら、いくらでも――」

「必要ない」

周防宴久は淡々と目を引き、静かな個室へ消えた。

一方、江口初姫はようやく隙間から逃げ出し、ふらふらと店内を見回した。

神谷柊はいない。どこにもいない。先に逃げた。

「……裏切り者」

悪態をつきながら口元を押さえ、よろめく足でトイレへ向かう。

今日飲んだ量は、人生でいちばんだ。

拐角を曲がるとき、うつむいたまま急ぎすぎて、左から出てきた人影とぶつかりそうになる。

「すみません、私――」

「江口さん?」

低く、磁力のある声。

熱い酒に冷たい水を注がれたみたいに、意識がすっと戻った。

江口初姫ははっと顔を上げる。

そこにいたのは周防宴久だった。眉をひそめ、薄い冷気をまとった目でこちらを見下ろしている。

「……周防宴久?」

周防宴久は彼女の腰を支えていた手を離し、半歩下がる。距離を引くように、淡々と。

「ここにあなたの婚約者はいない。演技は不要だ」

「違う!」

江口初姫の頭はぐらぐらで、酒気と一緒に前世の記憶がせり上がってくる。

事故のニュース。紙面の白黒写真。

こんな人が、あんな形で終わるなんて――そんなの、許されるはずがない。

彼女は焦って周防宴久の腕を掴んだ。

「あなた、死んじゃだめ! あなたは私を助けてくれた……いい人が早死にするなんて、おかしい。私だって死んで戻ってきたんだから、あなたも運命を変えられる。だから――」

「……っ」

言い切る前に、胃がせり上がる。

江口初姫はごみ箱にしがみつき、激しくえずいた。

「おえっ……!」

顔色は真っ白で、しゃがみ込んだまま立ち上がれない。

周防宴久の無表情に、珍しく小さな諦めが滲んだ。

――酔っ払い。

もちろん、さっきの言葉を本気にはしない。ただの酔い言だ。

それでも、細い背中が震えているのを見て、そのまま置いていけなかった。

「家はどこだ」

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