第1章
冷えきった手術台が背骨に食い込み、骨の芯まで疼いた。両手両足はロープで縛られ、赤く擦りむけている。ほんの少し身じろぎしただけで、鋭い痛みが一気に全身を這い上がった。
力なんて、とっくに削り取られていた。逃げようとしても、手足は鉛でも流し込まれたみたいに動かない。
「無駄に暴れるな」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた声だった。
「お前の腎臓は、今日――有香に移植する」
胸の奥がひゅっと縮む。私は勢いよく顔を上げ、涙が止めどなく溢れた。目の前に立つ男――私の夫である田村成川を、震える瞳で睨みつける。
「なんで……あなたがここにいるの? どうして、あなたなの?」
田村成川は鼻で笑った。その目は、まるで滑稽なものを見るみたいに冷たい。
「広瀬妃菜。まさか俺がお前に本気だと思ってたのか?」
頭の中が、ぶわっと耳鳴りで満たされる。唇が震えて、言葉にならない。
結婚して最初の一年、田村成川は優しかった。深夜に私が一言「食べたい」と言えば、街を半分横断してでも好物の菓子を買ってきた。雨の日は会社まで迎えに来てくれた。熱を出した夜には、眠りもしないで看病してくれた。
けれど一年を過ぎた頃から、彼は急に冷たくなったり、急に甘くなったり――その温度差に、私はずっと振り回されていた。
それでも私は、都合のいい理由を探していた。仕事のストレスが大きいだけ。きっと故意じゃない……そう思い込みたくて。
なのに今、その一言が頬を張り飛ばすみたいに私を叩き起こした。
「信じない!」
首を振り、喉が裂けるほど叫ぶ。
「私たちのあの日々……全部、嘘だったの?」
「お姉ちゃん、さすがに鈍すぎない?」
横から、くすりと笑う声。広瀬有香が私の胸元に指をそっと置き、甘く囁いた。
「その腎臓が私を助けてくれるから、成川さんはあんなに長く「愛してるふり」してくれたんだよ?」
私は、ゆっくり目を閉じた。声が、自分のものじゃないみたいに掠れる。
「……あの子の言うこと、ほんとなの?」
田村成川の視線は有香へ落ち、驚くほど優しく細まる。
「有香が嘘をつくわけないだろ。そもそも――偽物の令嬢のくせに、本当の愛が手に入ると思ってたのか? 身の程を知れ」
「あなたたち……」
胸にナイフを突き立てられたみたいだった。息ができない。
ここまで来て、何が分からないというのか。
広瀬有香が広瀬家に「本物の娘」として戻されたあの日から、二人はもう繋がっていたのだ。
憎い。
自分が憎い。
あの甘い言葉と、わざとらしい情け深さを信じた自分が、心底憎い。
そして――原崎野矢の言葉を信じなかった自分が、もっと憎い。
鉄格子越しに彼が私を見つめ、淡々と言った日のことを覚えている。
「妃菜。君が笑っていられるなら、俺がどうなってもいい」
それなのに私は、彼を牢獄へ送った。
彼は一度も私を恨まなかった。
今になって分かる。ずっと私を守り、待っていた人こそ――本当に私を愛してくれた人だったのに。
どうして私は、こんなにも愚かだったのだろう。
田村成川が身をかがめ、私の顎を乱暴に掴む。狂ったように笑いながら。
「ついでに教えてやるよ。最初から最後まで、俺はお前の記憶にいる「あいつ」じゃない。お前らが定めの証だと信じてたあの写真――あれも俺のじゃない」
あの写真。私が「運命の証」だと信じ切っていた一枚。
海を背景に写る、誰かと誰かの大切な思い出。――その「誰か」が、成川だと私は思い込んでいた。
全身が凍りつく。瞳孔が縮んだ。
「……どういう意味?」
広瀬有香が勝ち誇ったように声を上げる。
「知らないの? あの写真、成川さんが原崎野矢が重傷で意識ないときに盗ったんだよ」
田村成川は眉を上げ、思い出すように言った。
「死にかけでも必死に抱えて離さなかったから、よほど大事なもんかと思った。――ただの海の写真だったけどな。……まあ、思った以上に役に立った」
頭の中が爆ぜた。
だからだ。
だから彼は、記憶の中の「あの人」と全然違った。
だから原崎野矢は、いつもあんなに痛むような目で私を見ていた。
私が愛した相手は、最初から違っていた。
本当に私を愛してくれた人を、私は自分の手で地獄へ押し落とした。
可笑しいのか、哀れなのか、自分でも分からない。
あのとき、もう一言だけでも聞いていれば。ほんの少しでも調べていれば。結末は変わったのだろうか。
「……ごめんなさい」
呟いて目を閉じる。涙がこめかみを伝い、耳の後ろへ流れ落ちた。
「田村さん、移植の時間です。始められます」
「やれ」
冷たい二文字。
両手両足を固定され、私は破れた人形みたいに息をしているだけだった。
手術が終わると、田村成川は広瀬有香の手を引き、振り返りもしないで出ていこうとする。
指を絡めて歩く二人の背中を見ても、もう痛みすら感じなかった。
彼は、私を一度も見なかった。
「秘書。ここを片付けろ。こいつがまだ生きてるって情報は、外に漏らすな」
その瞬間――外で、鈍い音がした。
続いて、重いものが倒れる音。
私はかろうじて瞼を開く。
飛び込んできたのは、見慣れた影だった。
髭は伸び、目の下は落ち込み、痩せこけて別人みたいに――原崎野矢。
出所……したの?
「……原崎野矢……」
彼は赤い目で数歩駆け寄り、声を震わせた。
「ごめん、妃菜。遅くなった」
喉が詰まり、言葉が出ない。
原崎グループの掌権者として、あれほど高みにいた男が――私のために地位も権力も、全部を捨てて。
「……ごめんなさい」
嗚咽が漏れ、起き上がろうとして体が震える。
原崎野矢は私を見つめた。世界で一番大事なものを見るように。
「妃菜。謝らなくていい」
鼻の奥がつんと痛み、涙が止まらない。
そのとき、視界の端で田村成川が壁際の起爆装置へ手を伸ばすのが見えた。
「原崎野矢! 逃げて! 早く!」
残った力で押そうとしても、彼は微動だにしない。
それどころか、私を強く抱き締め、目尻に涙を滲ませた。
「妃菜。俺は死ぬのが怖くない。君を一人にしたくない」
罠だと分かっていて、それでも来た。私を一人で向き合わせたくなくて。
「馬鹿……! 行って、お願いだから!」
泣き叫んでも、もう押し返せない。
彼は離さない。
私は、抵抗をやめた。
代わりに、彼を抱き返す。
もし来世があるなら。
もう二度と、愛する人を間違えない。
もう二度と、軽々しく心を差し出さない。
もし来世があるなら――
「原崎野矢。次は……妃菜があなたを追いかけてもいい?」
その瞬間、轟音。
火柱が跳ね上がり、部屋が巨音とともに崩れ落ちる。
――彼の返事を、私は最後まで聞けなかった。
