第5章
照明がぱっと明るくなり、スクリーンが真っ黒に落ちた。
会場が一瞬で静まり返る。さっきまでのひそひそ声が、逆にやけに耳についた。
私はその場に立ち尽くしたまま、視線の温度が変わっていくのをはっきり感じていた。侮蔑が、同情に。婚約披露宴の主役として羨望を集めるはずだった私は、裏切られた哀れな女として憐れまれる側へ――。
でも、誰も知らない。
私は「やり直し」を手にしても、自分が可哀れだなんて思っていないことを。
ただ、あの二人の化けの皮を剥がす機会が戻ってきた。人間の皮を被ったクズから、ようやく解放される。それが嬉しいだけだ。
広瀬正国の顔は、鉄みたいに青黒く強張っていた。
私を一度だけ深く見据え、息を吸うと、すぐさま大股で会場の中央へ向かう。マイクを取り上げるように手にし、張りのある声で言った。
「皆さま、静粛に」
その口調は重々しく、揺れがない。ざわめきがすっと消えた。
「本日の不手際で、皆さまに多大なご迷惑をおかけしました。家の者をきちんと躾けられなかった、私の不徳の致すところです。ここに、心よりお詫び申し上げます」
広瀬正国は一拍置き、決断を叩きつけるように言い切った。
「加えて、宣言します。広瀬妃菜と田村成川の婚約披露宴は中止。広瀬家の娘を、こんな男に嫁がせるわけにはいかない。娘にこれ以上、屈辱を味わわせはしない」
胸の奥が、じんと温かくなった。
父は普段、表情ひとつ崩さない。厳格で、近寄りがたい。けれど私は知っている。冷たいのは外側だけで、内側は誰より熱い人だ。
広瀬家に来て何年も経つ。私は実の娘じゃない。それでも父は、一度だって私に惨めな思いをさせなかった。
前の人生でも、私は林原武美を信じて「母」として慕っていた。けれど心のどこかでは、ずっと広瀬正国のほうが近かった。
「では皆さま、本日はこれでお開きとさせてください。不行き届き、誠に申し訳ありません」
一家の主としての平静を必死に保ちながら、広瀬正国は林原武美を冷たく一瞥する。
「これが、お前の自慢の娘か」
吐き捨てると、父は真っ先に控室へ向かった。
林原武美は顔色を失い、全身が小刻みに震えている。私のことなど見向きもせず、よろける足取りで父の後を追った。
私はその場で二秒だけ立ち止まり、反射的に二階の影へ目をやった。
暗がりの一角――あの人影は、もう早足で去っていくところだった。ちらりと見えたのは、黒い服の裾だけ。
小さく息を呑む。
原崎野矢は最初から最後まで、私の「段取り」を見届けた。
田村成川と広瀬有香を曝いた以上、私はこの婚約を潰して、独りに戻ると決めたも同然だ。彼も、それを理解したはず。
それで彼は、私をもっと嫌いになるのか。それとも――少しは見方が変わるのか。
都合のいい期待はできない。
私は気持ちを切り替え、控室へ急いだ。
広瀬正国はすでに扉を叩いていた。中で十数秒の沈黙があり、ようやく足音が近づいてくる。
田村成川がネクタイを直しながら扉を開けた瞬間、父が肩で押しのけるように入り込んだ。
私も続いて中へ入る。
広瀬有香は慌てて服を整えていた。口元のルージュは明らかに崩れている。
惜しい。
スクリーンの電源を落とさなければ、ここで二人がキスを交わしている映像まで、あの場の全員に見られていたのに。
「パパ、ママ、姉さん……どうしてみんなここに?」
広瀬有香は状況が飲み込めていないのか、立ち上がって、平気なふりの笑顔で近づいてくる。
広瀬正国の前に来た、その瞬間。
父の腕が、躊躇なく振り上がった。
ぱんっ!
乾いた音が控室に響く。
広瀬正国の平手が、広瀬有香の頬を真正面から打ち抜いた。
不意を突かれた広瀬有香はソファへ倒れ込み、頬はみるみる赤く腫れ上がる。
私は胸の中で小さく息を吐いた。
――痛快。
「パパ、なんで殴るの!?」
広瀬有香は頬を押さえ、目尻を赤くする。
「恥知らずが。脚をへし折ってやりたいくらいだ。平手一発で、被害者面か?」
広瀬正国は怒りで顔を曇らせ、さらに田村成川を指さした。
「そしてお前だ、田村成川。私は未来の婿として見込み、私が最も誇りに思う娘――妃菜との婚約を認めた」
言葉が鋭くなる。
「この私の目の届く場所で、妃菜を裏切って妹と関係を持つ? 広瀬家を何だと思っている。妃菜を何だと思っている!」
田村成川は血の気を失い、額に冷汗を浮かべた。
慌てて私のほうを見て、必死に言い訳を重ねる。
「違う! 妃菜、誤解だ! 俺たちが二人でいたのは、有香が落ち込んでて、話を聞いてただけで――」
まだ、下で何が起きたかを知らない顔。
田村成川は私の手を掴み、確信めいた口調で訴えた。
「妃菜、信じてくれ。俺はずっと本気だった。分かってるだろ?」
誠実そうな目。私が信じると決めつけている目。
――今までの私は、彼にとって「都合のいい恋愛脳」だった。
私は冷えた視線で田村成川を見返し、あえて彼の甘い口調を真似て囁いた。
「ねえ、ダーリン。どうして着替えたの?」
田村成川の顔が、瞬時に真っ赤になる。
「お、お前……なんで――」
私は被せる。
「ここで何してたか、何話してたか、どうして分かったのか――って?」
田村成川は口を開けたまま固まった。
私は手を振りほどいて一歩下がり、笑うでもなく笑ってみせる。
「私だけじゃないよ。下にいるお客さん全員、知ってる。あなたたちがここでしてたこと、全部生中継されてたから」
「……あんたが!」
広瀬有香が顔を上げ、私を睨みつけた。目の奥が、ぞっとするほど黒い。
この瞬間、彼女が本気で私を殺したいと思っているのが分かった。
「私を陥れたのね!」
広瀬有香は泣き叫び、指を突きつけて父に訴える。
「パパ、姉さんよ! 私が戻ってきて全部奪われたから、姉さんは嫉妬してるの! 本当は偽物のくせに! だからこんな卑怯な手で私を――!」
私は首を傾けた。
「どうやって? 私があなたの手を操って田村成川のベルトに触らせた? それともキスするように仕向けた? それとも――」
一歩、また一歩。私は近づき、上から彼女の狼狽を眺める。
「複数の男と同時に寝て、撮られた動画まで、私が操った?」
田村成川が目を吊り上げる。
「……何を言ってる?」
広瀬有香は何かを思い出したのか、顔を引きつらせたまま叫んだ。
「黙って! 同時に寝たとか、そんなの嘘よ! 動画だって偽物!」
林原武美が即座に広瀬有香を抱き寄せ、かばうように言う。
「妃菜、正国、落ち着いて。まだはっきりしてないでしょ。有香は絶対に嵌められたのよ。私がちゃんと調べる。必ず潔白を――」
私はわざと、傷ついたふりの表情を作った。俯いて、自嘲気味に呟く。
「……そう。動画の中が妹なら『嵌められた』。私なら『婚約前に遊び回って撮られた』。母さんの中では、最初からそう決まってたんだね」
林原武美が、はっと息を止めた。さっき会場で、私に向けてどんな言葉を積み上げたか――その記憶が、今さら刺さった顔。
「もういい」
広瀬正国の声が落ちる。抱き合う母娘を氷のような目で見据え、さらに一歩引いた場所で青ざめて黙り込む田村成川を見て、露骨な嫌悪を浮かべた。
「私を愚弄するな。林原武美――これが、お前の『いい娘』か」
林原武美の唇が震える。言葉は出ない。
広瀬正国はこめかみを押さえ、深く息を吐く。振り返り、私に視線を向けた。その目に宿るのは、怒りだけじゃない。複雑な痛み。
「妃菜、行くぞ」
父は私の手首を掴み、林原武美の言いかけた顔すら無視して、そのまま控室を出た。
私は父に引かれるまま階段を下りる。父の背中から、崩れ落ちそうなほどの衝撃が伝わってきた。
本当は、こんなふうに傷つけたくなかった。
でも――復讐のためには、躊躇っていられない。
車内は静まり返っていた。
私は窓にもたれ、聞き分けのいい娘を演じて言う。
「パパ……あんまり怒らないで。体に悪いよ。妹も、きっと一時の迷いで……」
言いかけたところで、広瀬正国が重く息を吐き、声が少し柔らかくなる。
「妃菜。お前は優しすぎる。ここまでされても、まだ庇うのか」
父は前を向いたまま言い切った。
「安心しろ。もう二度と、お前に屈辱は味わわせない」
私は俯き、目の奥の嘲りを隠したまま、弱々しく礼を言う。
「……パパが味方してくれてよかった。じゃないと、私……どうしていいか分からなかった」
屋敷に戻ると、私は真っ先に二階へ上がり、スマホを開いた。
案の定、今夜の婚約披露宴の話題は炎上寸前だ。
「婚約披露宴で偽物の令嬢が裏切られた」だの、「本物の令嬢の不雅な動画」だの――刺激的な見出しと、好き勝手な憶測が飛び交っている。
ベッドのヘッドボードにもたれ、画面を指で流す。どのグループでも、私への同情と溜息、そしてあの二人への罵詈雑言で埋まっていた。
私は、誰にも聞こえない冷たい笑いを漏らす。
――まだ、始まりに過ぎない。
あなたたちが私から奪ったものは、利子までつけて一つずつ回収する。
そして、広瀬家の中も――これからが本番だ。
