第1章
法廷に静寂が満ちていた。
裁判長が木槌を振り下ろす。乾いた音が、石造りの壁に反響して消えた。
「被告人、星野凛。故意による放火、並びに殺人。犯罪事実は明白、証拠は確実。よって、懲役五年を言い渡す」
その言葉が耳に届いた瞬間、血の気が引いた。
星野凛は膝が震えるのを感じながら、それでも顔を上げた。喉が詰まって、声が出ない。それでも絞り出した。
「私はやっていない。証拠には疑問点だらけで、有罪にできる根拠がない。結城司、あなたまで信じてくれないの——」
傍聴席の前列に座る男を、目が離せなかった。
結城司。数年間、夫として隣にいた男。
返ってきたのは、凍りついた眼差しだけだった。
端正な顔に感情の揺れは一切なく、ただ冷たく見下ろしている。唇がゆっくりと開いた。
「証拠に疑問があるなら、自分で潔白を証明しろ。できないなら、被害者ぶるな」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
最初から、信じるつもりなどなかったのだ。
喉の奥で何かが固まって、言葉にならない。弁解も、訴えも、全部、あの目の前で意味をなくした。
刑務官が両腕を掴んだ。冷たい手錠が手首に食い込む。引きずられるように法廷の外へ連れ出されながら、何度も振り返った。
結城司は、もう見ていなかった。
護送車の中は息が詰まるほど狭かった。
隣に座った刑務官が、声を落として言った。
「若いのに人を殺して。刑務所じゃ、そういう奴は可愛がられるぞ」
無視した。
「結城司に会わせろ。今すぐ」
自分でも、声が震えているのが分かった。
あの火事の夜、白鳥遥も現場にいた。結城司が心の底から大切にしている女。なのに遥は無傷で生き残り、結城司の妹は死んだ。そして罪を着せられたのは、自分だった。
なぜ遥を庇う。なぜ疑わない。
答えは出ない。出るはずがなかった。
拘置所の門前に、結城司が立っていた。
黒いスーツ。腕を組んで、影の中に静かに佇んでいる。
護送車から降りた瞬間、目が合った。
抑えていたものが、一気に溢れた。
「火事の現場には疑問点がいくつもある。あなたも分かってるはず。なのになぜ——なぜ私を罪に落とした。なぜ人殺しにした」
声が裏返った。それでも止められなかった。
結城司はゆっくりと近づいてきた。一歩、また一歩。圧迫感が、息の仕方を忘れさせる。
「白鳥遥が目撃している。お前が嫉妬で火をつけた。遥を狙って、結果として妹を殺した。人証がある以上、言い訳は通らない」
また、遥の名前だった。
胸の奥が、すうっと冷えていく感じがした。
言葉を探す間もなく、冷たい指が顎を掴んだ。力が強い。顔を上げさせられ、逃げ場もなく目が合う。
「勘違いするな。お前との結婚は最初から契約だ。情など、一度もなかった」
「——契約」
思わず、そのまま繰り返していた。
数年間、何を信じていたのか。
小さな優しさも、隣に座る時間も、全部、自分が勝手に信じていただけだったのか。白鳥遥の影にも届かなかった、ということか。
指が離れた。
「三日後、星野鋭斗の経済犯罪が判決を迎える。星野家は全員、塀の中に入る」
瞳孔が収縮した。
鋭斗が。星野家が。
「鋭斗は何もしていない。星野商事は——」
「これ以上、話すことはない」
背を向けた。それだけだった。
「待って。待ってください——司!」
手を伸ばした。袖を掴もうとした。
刑務官に両腕を押さえられ、地面を引きずられながら、それでも目だけは追い続けた。
遠ざかる背中。振り返らない。
長年かけて積み上げたものが、音もなく崩れていく。愛情だと思っていたものが、じわじわと別の何かに変わっていくのが分かった。
鉄扉が閉まった。
重い音が、すべてを遮断した。
放火殺人。その噂は、あっという間に舎房中に広まった。
「人殺しが来た」
「自分の嫉妬で人を焼き殺したくせに、よくここで息できるな」
女たちが囲んでくる。全員の目が、敵意で尖っていた。
歯を食いしばって、立っていた。
最初の一撃が飛んできた時、反撃した。でも、多勢に無勢だった。床に叩きつけられ、冷たいコンクリートに頬が当たる。何発も、何発も。
痛みが、どこかで遠くなっていった。
意識が薄れていく中で、ただ一つだけ、はっきりと思った。
——二度と、結城司には会わない。
それから一か月が過ぎた。
雨が続いていた。
結城司は執務室の窓の前に立ち、ネクタイを少し緩めた。ここ数日、妙に落ち着かない。理由は分からない。
ドアが開いた。秘書の顔が青かった。
「結城総、大変なことが」
「話せ」
「星野凛が——昨夜、重篤な感染症で。医療刑務所で処置が間に合わず、亡くなりました」
