第2章
体が、動かなくなった。
「遺体は規定に従い、今朝すでに火葬が」
机の縁を掴んだ。
憎しみだと思っていたものが、どこかへ溶けていくような感覚があった。自分でも、何が残るのか分からなかった。
星野凛を憎んでいた。偏執的で嫉妬深い女だと、そう思っていた。白鳥遥を傷つけようとして、妹を死なせた。そう信じたから、すべてが始まった。
だから星野家を潰し、逃げ道を断った。どん底まで落として、苦しめて、それで罪を償わせるつもりだった。
殺すつもりなど、最初からなかった。
五年。それだけあれば、すべてが終わると思っていた。恨みも、痛みも、あの夜のことも、時間が薄めてくれると思っていた。こんな結末になるとは、思ってもいなかった。
机の縁を握ったまま、手の感覚がなくなっていた。
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空港は、変わらず騒がしかった。
アナウンスが重なり合い、スーツケースの車輪音が床に響く。どこかで子供が泣いていた。言葉の境界が溶けるような喧騒の中、星野凛は落ち着いた足取りで出口へ向かっていた。軽いキャリーケースを引き、片方の手に諒の小さな手を握って。
出口を抜けると、黒いアルファードが静かに待っていた。
三人が乗り込む。ドアが閉まった瞬間、外の音が嘘のように消えた。シートに深く沈み込み、凛はゆっくりと息を吐いた。
車が動き出す。
渋谷、青山。見慣れたはずの東京の景色が、窓の外を次々と流れていく。ネオンと高層ビルが重なり合い、夜の街が光の層を作っていた。
五年ぶりだ。
その実感が、不意に胸の奥を押した。
五年前の自分は、この街を逃げるように去った。「殺人犯」「悪女」——週刊誌はそう書き立て、カメラが追いかけ、逃げ場はどこにもなかった。DNA鑑定書、火葬証明、星野凛という人間が確かに死んだことを証明する書類が揃い、世界は彼女の死を既成事実として受け入れた。
今の自分には別の名前がある。Stella。国際的な人像・ブランドPR写真家として、海外で五年をかけて積み上げてきた。
過去は過去だ。
窓の外に視線を戻し、凛は心の中で静かにそう区切りをつけた。
隣の席では、諒がiPadを開いていた。
画面に経済ニュースが映し出される。発表会の壇上、スーツ姿の男。カメラを見据えた目は冷たく、隙がなかった。経済紙に名前が載らない週はない、というほどの男だった。
結城司。
諒は数秒それを眺め、指を滑らせてページを閉じた。
「諒、あの人が嫌いなの?」
凛は何気なく聞いた。
「嫌い」
即答だった。迷いが一切ない。
陽太が身を乗り出し、凛を見上げた。
「ねえ、お母さん。あの人って、僕たちのお父さん?」
凛の指先が、わずかに止まった。
「……なんでそう思うの?」
「顔」と諒が答えた。「見たらわかる」
そうだろう、と凛は思った。二人の眉の形、目の奥の鋭さ——結城司そのものだった。幼さがあるぶん、彼の冷厳さは薄れているが、それがかえって輪郭を際立たせていた。
「じゃあ、整形でもしてもらおうか」
笑いながら言ってみた。
諒は真顔で首を横に振った。
「意味ない。本気で探したいなら、必ずDNA検査をする。顔がどうかは関係ない」
四歳とは思えない答えだった。凛は少し笑い、少し言葉に詰まった。
「……うちの諒、賢すぎじゃない」
「お母さん、心配しなくていいよ」
諒がこちらを見た。漆黒の瞳が、凛から目を逸らさなかった。
「僕たち、あの人についていかないから」
予想していなかった言葉だった。凛は目を丸くした。
陽太が腕にしがみついてきた。
「いらない。お父さんいらない。お母さんだけでいい」
「僕たちはお母さんのそばにいる」
諒が重ねる。
ただそれだけの言葉だった。なのに、凛の喉の奥が急に熱くなった。五年間、蓋をしてきたものが、子供たちの声一つでじわりと滲み出てきた。
泣かない、と思った。
でも目の縁が熱いのは、どうしようもなかった。
車は表参道の細い路地に入り、静かに停まった。
白い外壁。木目のドア。通りから一本入った場所に建つ小さなビルの一階——それが「Stella Studio Tokyo」になる場所だった。
藤堂渉が手を回してくれた物件だ。採光が良く、人通りが少なく、それでいて表参道という立地はハイブランドへのアクセスも悪くない。
中に入ると、陽太がすぐに駆け出した。琉球畳のコーナーを見つけ、そこに転がり込んでブロックを広げ始める。
「お母さん、ここいい。ここで待ってるね」
凛はスタジオの中央に立ち、空間を見渡した。
かつては結城司のために、カメラを置いた。彼の隣に立つためだけに、写真を撮ることをやめた。
シャッターを切るのは、今度こそ自分のためだ。
そこへ着信が入った。画面には「林希乃」の名前。
「Stella、仕事の話。銀座の高級カフェから依頼が来てる。大手企業の新任役員、コーポレートPR撮影。あなた指名よ」
凛は少し間を置いた。
帰国初日に名指しの依頼。偶然にしては、整いすぎている。
「……わかった。行く」
電話を切り、凛はカメラバッグを引き寄せた。
同じ頃、表参道の幹線道路を一台の黒いロールスロイスが走っていた。
後部座席は静かだった。車内の空気は低く、重い。秘書も口を開かない。それがこの車のルールだった。
結城司は窓の外を眺めていた。視線は動かず、表情はない。
車が交差点に差し掛かったとき、対向車線をアルファードが通り過ぎた。
一瞬だった。
隙間から見えた横顔。車内の照明に浮かび上がった輪郭。
結城司の体が、固まった。
目を、離せなかった。
アルファードはもう遠ざかっていた。それでも目が追いかけた。人混みに消えるように、車は信号の向こうに消えていく。
——星野凛。
五年前に死んだ、はずの女。
DNA鑑定書は本物だった。火葬の記録も確認した。あらゆる証拠が、死を裏付けていた。
なのに今見た横顔は、記憶の中の彼女と、寸分も狂わなかった。
「止めろ」
声が出た。自分でも驚くほど、低かった。
秘書が反応する前に、アルファードはもう見えなくなっていた。
結城司はしばらく、動かなかった。
車内に沈黙が落ちる。窓の外では東京の夜が続いていた。
——生きているのか。
その問いだけが、胸の底に沈んで、消えなかった。
