第3章
結城司はロールスロイスの後部座席に座ったまま、黒いアルファードが消えていった方向を見つめていた。
車窓の外、東京の夜景が流れ続けている。ネオンの光の帯がガラスの表面を何層にも横切っていくが、何も目に入らなかった。
五年前の死亡通報。DNA鑑定報告書。火葬の記録。
書類はすべて揃っていた。どれにも公印が押され、どれもが星野凛の死を確認していた。
なのに、今見たあの横顔は——
動揺を認めたくなかった。それでも、胸の底に走った震えは消えなかった。
もし本当に彼女なら、五年前に死んだのは誰だ。なぜ死を偽った。どうやって。
騙されたという怒りが、じわりと湧き上がってくる。氷の下を流れる暗流のように、静かに、確実に。
「あの車を調べろ」
低い声が出た。温度がなかった。
助手席の秘書がすぐに携帯を手に取る。
「ナンバー、走行ルート、登録者情報。一時間以内に」
「はい」
車窓の外の光と影が、流れ続けた。結城司は目を閉じた。
あの横顔だけが、網膜に焼きついて消えなかった。
銀座の静かな通りに、黒いアルファードが停まった。
星野凛はシートベルトを外し、後部座席の二人を振り返った。
「諒、陽太。林さんが外で見ててくれるから。勝手にどこかへ行かないこと、わかった?」
「わかった」諒が頷く。声は落ち着いていた。
陽太は小さな恐竜のぬいぐるみを抱えたまま、勢いよく頷いた。
「お母さん、早く戻ってきてね」
頭を軽く撫でて、ドアを開けた。
外では林希乃がすでに待っていた。黒いスーツ姿で、手にタブレットを持っている。凛が降りるのを見て、すぐに近づいてきた。
「Stella、相手は桐生グループの人。今回は企業幹部のコーポレートPR撮影で、予算はたっぷりあるから気負わなくていいわよ」
「うん」
凛はカメラバッグを持ち直し、カフェの入口に目をやった。ガラスのドアに金文字が入っている。中には淡いベージュの内装と低く垂れたペンダントライトが見えた。静かで、高価で、閉じた空間。
権力を持つ者たちが商談をする場所だ、と思った。
二人の子供に露台のそばで待つよう言い聞かせ、ひとつ息を吸って、中へ入った。
桐生拓は約束の時間に十分遅れた。
銀座の駐車場は常に埋まっているし、フェラーリは目立ちすぎる。停めるたびに写真を撮られるのは御免だった。
カフェのガラスドアを押して入り、サングラスを外しながら店内を見渡した。担当者を探そうとして——視線が、露台で止まった。
足が止まった。
露台のそばに、子供が二人いた。双子、四歳か五歳くらい。一人は恐竜のぬいぐるみを抱えてテーブルに突っ伏し、もう一人はタブレットを静かに眺めていた。
その顔を見た瞬間、目を細めた。
眉の形。鼻筋の通り方。唇をわずかに引き結んだ角度。
結城司の子供の頃に、似すぎていた。
いや、「似ている」じゃない。
そのままだ。
頭の中に、荒唐無稽な考えが浮かんだ。
——司、いつの間にこんなに大きい息子が二人いたんだ。
「お母さん、お水飲みたい」
陽太の声が露台から聞こえた。
カフェの中から、一人の女が出てきた。
淡いベージュのトレンチコート。黒いパンツ。髪を緩く後ろでまとめている。透明なコップを手に持って、子供のそばへ歩み寄り、腰をかがめて差し出した。
「一気に飲まないで」
桐生拓は、その顔を見た。
体が、固まった。
星野凛。
五年前に放火殺人で有罪判決を受け、獄中で死に、遺体が火葬されたはずの星野凛が、今、目の前に立っていた。
息が、一瞬止まった。
すぐに携帯を掴み、結城司の番号を押した。
繋がった。
「司、銀座で星野凛を見た」
二秒、沈黙があった。
「何を言っている」
「死んでない」
声を落とし、露台から目を離さなかった。
「子供が二人いる。お前にそっくりだ」
桐生拓は息を整え、サングラスをかけ直して露台へ向かった。
商談相手として振る舞う。それだけだ。
「はじめまして。桐生グループの桐生拓と申します」
名刺を差し出した。
星野凛は反射的に受け取り、視線を落とした。
桐生グループ。桐生拓。
指先が、わずかに止まった。
この名前には聞き覚えがある。桐生家と結城家は長年の付き合いで、桐生拓は結城司の古い友人だ。サングラスで顔の半分は隠れていても、名刺の文字がすべてを語っていた。
危険が、すぐそこまで来ている。
顔に何も出さないまま、凛は口を開いた。
「申し訳ありませんが、桐生さん。急用が入りまして、今日の件はなかったことにしていただけますか」
振り返り、林希乃に言った。
「希乃、行くよ」
「え、でも——」
「今すぐ」
声は静かだったが、有無を言わせなかった。林希乃は理由が分からないまま、凛の顔色を見て即座に頷いた。
「わかった、行きましょ」
桐生拓が何か言いかけた時には、凛はすでに二人の手を引いて出口へ向かっていた。
アルファードが銀座を離れた直後、バックミラーに黒いロールスロイスが映った。
凛は方向盤を握る手に力を込めた。
もう追ってきている。
アクセルを踏み、脇道へ入る。振り切ろうとした。だがロールスロイスはぴったりついてきた。東京の夜は車が多く、ネオンが車窓を次々と流れていく。車線を変え、角を曲がり続けても、あの車は一定の距離を保ったまま離れなかった。
「お母さん」
諒が静かに言った。
「誰かに追われてるの?」
凛は答えなかった。
ハンドルを切り、細い路地へ突っ込む。前方は仮住まいのマンション近くの交差点だ。そこまで辿り着ければ——
角を曲がった瞬間、黒いロールスロイスが路口を塞いでいた。
ほぼ車のバンパーに触れるほどの距離で、横に停まっている。
ブレーキを踏んだ。
タイヤが路面を引っ掻く音が響き、車体が激しく揺れて、止まった。
後部座席で陽太が顔を上げた。諒も黙った。
車のドアが、重い音を立てて開いた。
結城司が夜の闇の中から歩いてくる。
車窓の外に立ち、漆黒の瞳の奥に、凛には読み取れない感情が揺れていた。
「星野凛」
一語一語、区切るように。
「いつまで逃げるつもりだ」
