第4章
車のドアを押し開け、星野凛は夜風の中に立った。
膝が微かに震えていた。車体に手を添えて体を支え、顔を上げて結城司を見据える。五年。五年ぶりに向き合って、あの顔も、あの目も、あの息が詰まるような圧迫感も、何一つ変わっていなかった。
でも自分は、五年前とは違う。
「結城社長」
声は、思ったより落ち着いていた。
「ご無沙汰しております」
結城司は街灯の影の中に立ったまま、動かなかった。視線が凛の顔を一度なぞる。何かを確かめるように。あるいは否定しようとするように。数秒の沈黙の後、唇が開いた。
「なぜ死ななかった」
問いではなかった。断罪だった。
「五年前、誰がお前の死を偽造した」
凛は答えなかった。
「なぜ子供を連れて五年間も隠れていた」
その視線が、凛の肩越しに車内へ流れた。
後部座席に、諒と陽太が並んで座っている。二つの小さな顔が、窓ガラス越しにこちらを見ていた。諒は表情を動かしていない。陽太は恐竜のぬいぐるみを胸に抱き、眉根を寄せている。
結城司の呼吸が、一瞬止まった。
眉骨の稜線。鼻筋の角度。唇をわずかに引き結んだ、その形。
まるで鏡を見ているようだった。
胸の奥を、鋭いものが貫いた。
凛は一歩横へ動き、視線を遮った。
「私たちの間には、もう何もありません」
語調は平らだった。期限の切れた契約を告げるような、感情の剥がれた声だった。
「道を開けてください」
結城司は動かなかった。
凛を迂回し、車の窓に向かって歩み寄った。二つの顔が、その動きを追っている。
陽太が先に動いた。諒の前に両腕を広げて立ちふさがり、結城司を真っ直ぐに睨みつけた。
「悪いおじさんだ。お母さんに近づくな」
諒は手首を持ち上げた。子供用の防犯ブザー付きスマートウォッチの画面が光る。結城司を見上げ、声を落ち着かせたまま言った。
「これ以上お母さんに絡むなら、警察を呼びます」
結城司は、一瞬だけ動きを止めた。
自分の息子だ。ほぼ確信していた。その二人が、まるで見知らぬ危険人物を見るような目でこちらを見ている。
怒りが、湧いた。それと同時に、何か鋭いものに細く引っかかれるような感触が胸の奥に走った。
振り返り、凛の手首を掴んだ。
「子供は誰の子だ」
問いではない。
「答えろ」
凛は手を引こうとした。
放さなかった。
二人が揉み合う間に、凛の上着の袖口が捲れ上がった。
結城司の動きが止まった。
手首の内側に、古い傷が幾重にも走っていた。刃物の跡。焼け爛れた痕。塞がった皮膚が引きつれて残した、白く盛り上がった線。どれも古い。長い時間をかけて、見えない場所に、何度も重ねられた傷だった。
その腕から、目が離せなかった。
何も、言えなかった。
凛は静かに手を引いた。袖口を引き下ろす。
「誰にやられた」
喉が、かすかに詰まっていた。
「心当たりはないですか」
顔を上げ、真っ直ぐに見返した。
「あなたのおかげです、結城社長」
結城司は動かなかった。
「拘置所と刑務所でついた傷です」静かな声だった。抑揚がなかった。まるで他人の話をするように。「放火殺人。その名前を背負って入ったら、誰も容赦しない。どこへ行っても、何をしても」
少し間を置いた。
「私をそこへ送り込んだのは、あなたです」
結城司は、初めて何も言えなかった。
その一瞬の隙を、凛は逃さなかった。
素早く車に乗り込み、ドアロックを押した。エンジンをかける。タイヤが路面を蹴り、車が動き出した。
バックミラーに、街灯の下に立つ結城司が映った。
追ってこなかった。
凛はアクセルを踏み、角を曲がり、夜の道へ入った。
公寓へ戻ると、気力だけで子供たちを入浴させ、パジャマに着替えさせ、布団に入れた。おやすみ、と言う声が、自分でも分かるくらい掠れていた。
子供部屋のドアを閉め、廊下に出た。
電気はつけなかった。
壁に背中を預け、そのまま床へ座り込んだ。
崩れたわけではなかった。ただ、ずっと張り続けていたものが、音もなく緩んだ。涙は出なかった。ただ胸のどこかに隙間ができて、そこから何かが少しずつ滲み出るような感覚だけがあった。
子供部屋のドアが、細く開いた。
諒が廊下に出てきた。凛の横に腰を下ろし、何も言わずに肩に頭を預けた。
しばらくして、陽太も出てきた。凛の膝に頭を押しつけ、くぐもった声で言った。
「これからは、ぼくがお母さんを守るから」
凛は目を閉じ、二人をそっと抱き寄せた。
少し経って、洗面台の鏡の前に立った。
薬棚を開ける。白い小瓶。精神科から処方された薬だった。一錠取り出し、蛇口の水で飲み下した。
鏡の中の顔は、血の気がなかった。
それだけ確認して、棚を閉めた。
翌朝、凛は定刻に表参道のスタジオに入った。
昨夜のことで、計画を崩すつもりはなかった。結城司に振り回された一夜は一夜で終わりだ。今日は今日の仕事がある。
林希乃は朝早くに諒と陽太を迎えに来た。東京の大型テーマパークへ連れて行く約束だった。子供たちが玄関を走り抜けていく後ろ姿に、凛は一度だけ声をかけた。
「希乃さんから離れないこと。いい?」
「わかってる」と諒。
「わかった!」と陽太。
ドアが閉まった。
スタジオでサンプル写真の選定をしていると、林希乃からメッセージが届いた。
テーマパークへ向かう車中からだった。最後にひと言、付け加えてあった。
——あ、そうだ。風颂ホールディングス傘下のジュエリーブランド「鎏光」、Stellaとのコラボ企画を進めてるって話、先方から打診があったよ。詳しくは後で。
凛はその一文を、もう一度読んだ。
風颂ホールディングス。鎏光。
日本の高級ジュエリー市場に戻るための、最短ルートだった。今の自分には、この入り口が要る。
スマートフォンを伏せ、画面へ視線を戻した。
まず目の前の仕事を終わらせる。
テーマパークは混んでいた。
週末の昼前、入場ゲートから内部まで人の波が続いている。林希乃は諒と陽太の手を引き、お目当てのエリアへ向かった。アトラクションを一つ回り、記念写真を撮り、ショップを覗いた。陽太は新しいキャラクターのぬいぐるみを見つけてその場で立ち止まり、諒はパンフレットを開いて次の目的地を検討していた。
アイスクリームの列に差し掛かったとき、林希乃は二人をベンチに座らせた。
「すぐ戻るから、絶対ここから動かないで」
「動かない」諒が答えた。
「うん」陽太も頷いた。
林希乃が人混みの中へ消えた。
二人がベンチで待っていると、人の流れの中から男が二人近づいてきた。スーツではなく、目立たない私服だった。
一人が膝を折り、スマートフォンの画面を差し出した。
画面に、男の顔が映っていた。
結城司だった。
「お父さんが待ってるよ」
陽太が声を上げかけた。口が開いて、止まった。
諒は二人の男を無言で見ていた。体に力が入っているのが、自分でも分かった。
もう一人が、静かに言った。
「お母さんが向こうで待ってるから、一緒に行こう」
陽太が振り返った。林希乃が並んでいる方向に目をやった。
その一瞬だった。
林希乃がアイスクリームを二つ持って戻ってきた。
ベンチが、空だった。
手の中のアイスクリームが、傾いた。気づかなかった。
「諒? 陽太?」
一度振り返り、もう一度振り返った。周囲を見回した。人混みの中に、二人の姿はなかった。
喉が塞がった。
スマートフォンを掴み、画面を押した。呼び出し音が一度鳴る前に、繋がった。
「凛——子供たちが、いなくなった」
