第5章
防災センターに着いたとき、林希乃は涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「ごめん、ちょっと目を離しただけで——本当にごめん——」
凛は答えなかった。
スタッフに声をかけ、防犯カメラの映像を要請した。
モニターの前に立ち、画面を見た。
タイムコードが戻っていく。再生が始まる。
駐車場の出口。
二人の男が、諒と陽太を両側から挟むようにして歩いていた。子供たちは走っていない。連れられていた。
そして四人は、一台の車へ向かった。
黒いロールスロイスだった。
林希乃が掠れた声で言った。
「あの人たち、誰?」
凛は答えなかった。
あの車を、知っていた。
結城司。
彼だ。
我が子を、連れていった。
黒いロールスロイスは首都高速を静かに走っていた。
結城司は後部座席の左側に座っていた。右側には、二人の子供が並んでいる。車内に声はなかった。運転手は前を向いたまま、仕切りガラスが上がって前後を完全に遮断していた。
沈黙が五分近く続いた。
司は視線を動かし、二人を見た。陽太は恐竜のぬいぐるみを胸に抱いたまま、窓の外を見ていた。流れていく夜の街を、でも何も見ていないような目で。諒は陽太の隣で体をわずかに弟の方へ向け、身じろぎもしない。
「何が食べたい?」
司は口を開いた。思ったより落ち着いた声が出た。
返事はなかった。
「玩具でも、どこか行きたいところでも」
陽太がぬいぐるみをきつく抱え直した。それから口を開いた。小さいが、はっきりした声だった。
「悪い人のものはいらない」
司の視線が、陽太の顔の上で一瞬止まった。
諒が顔を上げた。司の目とよく似た瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。子供らしい甘えも怯えもなく、ただ静かに、議論の余地のない事実を述べるような目だった。
「あなたはお父さんじゃない」
「お父さんは、僕たちが生まれる前に死んだ」
車内が静まり返った。
司は動かなかった。窓の外の街灯が一筋ずつ車窓を横切り、横顔を照らしては消えていく。その言葉が胸の奥に落ちた。細い針が静かに刺さり、抜かれるような感触。傷は小さく、しかし正確だった。
視線を窓の外へ戻し、奥歯を噛んだ。
本邸の石畳に入ったとき、鉄扉はすでに開いていた。建物の内側から灯りが滲み出し、玄関廊下は広く、庭の奥の松が夜風に揺れていた。
車が止まった。
ドアが開くと、福伯が出迎えに来た。六十を過ぎた老管家で、結城家に仕えて四十年近くになる。めったなことでは動じない男だった。
その視線が二人の子供の上に落ちた瞬間、止まった。
一瞬だった。すぐに頭を下げ、いつもの落ち着きを取り戻した。しかし司はその一瞬を見逃さなかった。
「客間へ」
「はい」
二人は福伯についていかなかった。陽太は司の後ろへ一歩退き、そこに立ったまま、ぬいぐるみを抱えて顎を上げた。諒が弟の袖を引き、二人は目を見合わせ、動かなかった。
司は強いることをしなかった。
茶室では、結城宗厳が書をしたためていた。
筆が硯の縁に置かれ、紙の上の墨はまだ乾いていない。顔を上げ、連れてこられた二人を見た。目が、静かに変わった。
何も言わなかった。ただ見ていた。
眉の形。目と目の間隔。鼻筋の通り方。目の前に立つ孫と、寸分も違わなかった。
司は入口に立ち、口を開いた。
「俺の息子です」
宗厳は茶碗を置き、重く静かな声で言った。
「DNA鑑定が必要だ」
「します」
「血縁が確認されれば」と宗厳は続けた。「戸籍編入を早急に検討しなければならない。結城家の血が外に出たままでいるわけにはいかない」
諒が口を開いた。
声は高くなかった。しかし一語一語が、しっかりと地に足をついていた。
「お母さんが放火犯だというなら、僕たちは放火犯の子供です」
宗厳を真っ直ぐに見上げ、続けた。
「お母さんを見下しているなら、僕たちも要らないはずです」
茶室に、一瞬の静寂が落ちた。
宗厳はすぐに答えなかった。この子供を見つめ、その目の奥で何かがゆっくりと動いた。しかしそれはすぐに沈み、元の静けさに戻った。茶碗を手に取り直し、それ以上何も言わなかった。
同じ頃、マンションの廊下で、星野凛は七度目の発信をしていた。
電源が切れている。
手の中のスマートフォンを握り直し、もう一度押した。同じだった。
向き直り、別の番号を呼び出した。
「紗耶、結城司の居場所を調べてほしい。今すぐ」
二秒の沈黙があった。
「……やってみる。二十分くれる」
凛は廊下に立ったまま、壁に背中を預けた。部屋の中は静かで、窓の外の街の音だけが遠くから届いていた。座らなかった。座ったら、足が保たない気がした。
十八分後、松本紗耶から折り返しがあった。
「わかった。六本木にいる。会員制クラブの最上階。今夜、東京湾再開発案の政財界の関係者と重要な合作を進めてるらしい。かなり厳重な場だって」
「住所を」
「凛、あんな場所には入れないよ——」
「住所を」
六本木のビルには看板がなかった。エレベーターはカードがなければ動かない。入口に二人のガードマンが立ち、近づく者を無言で測っていた。
星野凛は真っ直ぐ歩いていった。
「結城司に用があります」
一人が前に出て、道を塞いだ。
「本日の個室は予約外のお客様はお通しできません」
凛は退かなかった。そのとき、廊下の奥から足音が近づいてきた。
桐生拓だった。
凛を見て、一瞬止まった。その目に何かが走った。驚きではなく、それより暗い何か——後ろめたさに近いものだった。
ガードマンに向かって、顎をしゃくった。
「通せ」
ガードマンは一度拓を見てから、脇へ退いた。
最上階の個室のドアを押すと、低い喧騒が一気に押し寄せてきた。
間接照明。革張りのソファ。細長いグラス。七、八人の男たちが思い思いに座り、テーブルの上には東京湾再開発案の資料が広げられていた。声は低く抑えられているのに、場の圧は重く、沸点を超えてもなお蓋をされ続けているような熱気があった。
凛は入口から室内を一瞥した。結城司の姿はなかった。
視線が、テラスへ向いた。
掃き出し窓が細く開いている。テラスに、結城司が背を向けて立っていた。片手をズボンのポケットに入れ、東京の夜景を前にして、微動だにしない。街の灯りが背後に広がり、密で冷たい光の層を作っていた。
凛は人の間を抜け、窓を押し開けた。
夜風が冷たかった。
結城司は振り返らなかったが、口を開いた。
「早かったな」
「子供たちはどこですか」
背後に立ち、声は平らだった。ただ「私の」という言葉を、静かに、しかし重く押した。
結城司が振り返り、一度だけ凛を見た。
「俺の息子でもある」
「連れていく権利が——」
「血縁がある」
「血縁」
凛はその言葉を繰り返した。口の端がわずかに動いた。笑いではなく、冷たい何かだった。
「五年前、あなたは私を拘置所へ送った。星野商事を潰した。私を死にかけさせた。それで今、血縁の話をするんですか」
結城司の目が動かなかった。
「お前は俺の妹を焼き殺した」
「していない」
「白鳥遥が見ている」
「遥さんの言葉は信じる。私の言葉は一言も信じない」
声は平らなままだった。しかし一語一語が、石を置くように落ちた。
「五年前もそうだった。今もそうだ」
結城司は何も言わなかった。
「あなたに子供は必要ない」凛は続けた。「あなたに必要なのは、結城家の血を証明するものだ。あの二人は、あなたにとって人じゃなくて駒です」
「お前に何が与えられる」
「今の私が与えられるものは、あなたより多い」
テラスに沈黙が落ちた。
結城司は視線を外し、遠くの東京湾の方へ向けた。
「金。豊洲のマンション、お前が住んでいたところだ。撮影チームも手配できる」
「いらない」
「お前は——」
「子供たちを返してください」
そのとき、桐生拓が窓の内側から近づいてきた。細く開いた隙間から、声を落として言った。
「司、中の人たちが待ってる」
結城司はすぐに動かなかった。凛を見て、数秒黙っていた。
それから口を開いた。
声が変わっていた。さっきより低く、平らで、最初からそう言うつもりだったことを今口にするような、静かな確信があった。
「諒と陽太に会える機会をやる」
