第2章秘書に昇進
ジューン
二日と十二時間。
わたしが二度としないと決めていたことを、またやってしまってから、それだけの時間が経った。
つまり――見ず知らずの相手と寝ること。
終わった相手のことほど、頭から追い出しにくいものはない。
考えないようにしている。ただ、ぐいっと押し込めるのだ。これまでの悪い選択がみんな住みついている、あの場所の奥底へ。家賃も払わずに。
だって、今のわたしはここにいる……憧れの会社の前に。ビルはあまりにも高くて、こちらに覆いかぶさってきているようにさえ思える。
エイペックス・コーポレーション――三十フィートはありそうな金属光沢の頭文字が、天空すら自分のものだと言わんばかりに、入口の上でぎらりと輝いている。実際のところ、本当にそうなのかもしれない。全面ガラス張りの外壁には、車の流れも、観光客も、通行人も、企業広告を延々と映し出す巨大な発光スクリーンも、まるごと映り込んでいる。まるでデジタルの礼拝みたいに。けれど、わたしの目に入るのは、自分の顔だけだ。小さくて、目を見開いた顔。
歩道の上で立ち止まり、息を吸う。一度。二度。もう一度。
「落ち着いて、深呼吸」
そう自分に言い聞かせる。
革のフォルダーを胸にぎゅっと抱きしめる。初日だ。新しい始まり。ラスベガス最大級の企業でのインターンシップ。わたしがずっと努力してきたもの、そのすべて。今のわたしにどうしても必要なもので、絶対に失敗できないものでもある。
手に入れたばかりの身分証を正面の警備パネルにかざす。ランプが緑に点滅する。さあ、始まりだ。
エイペックスの内部は、まるで別世界だった。ひんやりとしていて、照明は明るく、息をのむような大理石の床が広がっている。落ち着いた色合いのスーツを着た人々が、血管の中を流れる血のように行き交っていた。速く、無駄なく、ためらいもない。もうすでに、自分だけ出遅れている気がする。
艶やかな黒髪に果実の社章付きヘッドセットをつけた女性が、ロビーでわたしを迎えた。
「ジューン・パール・アレクサンダーさんですね?」
「はい」
夢から抜け出してきたばかりみたいな声にならないよう気をつけながら、わたしは答える。
彼女はきりっとした笑みを浮かべた。
「私はブレンナです。配属は三十九階の戦略・革新チームになります。ついてきてください」
エレベーターは速かった。
ものすごく速い。
磨き上げられた壁の映り込みで髪を整える。この建物にいる全員が、わたしの知らない何かを知っている気がする。みんな最初から縦縞のスーツを着こなして生まれてきたみたいで、わたしはまだ、ブラウスに汗をにじませずにいる方法すら手探りしているのに。
三十九階に着くと、扉の向こうには広々としたオープンスペースが広がっていた。金属光沢のデスク、巨大なタッチスクリーンのボード、そして床から天井まである窓の向こうには街が一望できて、その景色に膝が少しだけ頼りなくなる。
濃紺のスーツを着た男性が、タブレットを小脇に抱えてこちらへ歩いてくる。三十代後半くらいだろうか。無駄のない気配をまとい、仕事用の笑顔を浮かべている。
「ジューン?」
と彼は尋ねた。
「はい、わたしです」
少し急ぎすぎたくらいの速さで、わたしは答える。
「私はデイヴィッド・スコット。戦略部門の責任者です。ようこそ。来てくれて本当にうれしいですよ」
「ありがとうございます」
声がほんの少し高くなってしまう。
「ここに来られて、本当にわくわくしています」
彼はうなずき、チームの執務スペースのほうへ手を向けた。
「では、みんなに紹介しましょう」
歩きながら、彼は各部門を指し示していく。市場分析、製品予測、リスク監督――そのひとつひとつが頭の中でぐるぐる回り、まるで動き出した実地のケーススタディに飛び込んでしまったみたいだった。
やがて、いくつかのデスクが半円状に並ぶ一角にたどり着く。数人のチームメンバーが、ちょうど話し合いの最中だった。
「こちらが新しいインターンのジューンです」
デイヴィッドが手を打ってそう紹介する。
わたしはぎこちなく笑った。
「こんにちは。ジューン・アレクサンダーです」
全員が一斉にこちらを向く。礼儀正しく、そして興味深そうに。
「今期はジューンが何人かについて回りながら」
と彼は続けた。
「エイペックスがどんなふうに迅速に、そして――」
そのとき、扉が勢いよく開いた。
黒いベストを着た、背の高い痩せた男が入ってくる。明らかに上位の立場にあるとわかる人物で、その切迫した足取りだけで、周囲の全員がぴたりと口をつぐんだ。
「スコット。話の途中ですまない」
デイヴィッドは姿勢を正した。
「もちろんです、ポール様」
ポール氏は笑わない。「社長が秘書をたった今解雇した。今すぐ臨時の代わりが必要だ。頭の切れる、手が早い、口の堅い人間がな」
デイヴィッドが瞬きをする。「えっと……その……」
彼の視線が私へ滑る。私も瞬きを返す。
「君がジュンだな?」とポールが言う。まるで読む暇もない書類を品定めするみたいに、もう私を測っている。
「はい?」私は答える。答え半分、問いかけ半分。
「新しいインターンだ」
「はい。はい、承知しました」
「よし。昇格だ。一週間だけ」
「待って、私――え?」私は勢いよくデイヴィッドを見る。彼は気まずそうに肩をすくめた。「役員側の現場を見たいって言ってたろ」
私は口を開け……閉じた。現場を見る、って、地獄へのエスコートの意味じゃない。
「来い」とポールが言う。「お待ちだ」
胃がきゅっと縮む。ほとんど同僚になりかけた人たちの、ざわめきや囁きが耳に引っかかる。
「就任してまだ一か月なのに、もう秘書を三人クビにしてるってさ」と誰かが言った。
「彼女、運が悪いな」と別の誰かが呟く。
「かわいそう。来たばっかりなのに」
え? 新しい社長?
そんな話、聞いてない。
やったね、ジュン。憧れの会社で自分を驚かせたくて下調べをサボった報いがこれだ。
詰んだ。
ポールの後について歩きながら、ヒールが急に高すぎる気がして、心臓の音がやけにうるさくて、頭が妙に冴えてしまう。ここは冷めたコーヒーとプリンターのトナーと、過剰な野心の匂いがする。
別のエレベーターに乗る。階数表示が、私の脳内でいつもみたいにやたら速く上っていく。
倒れそうな呼吸をするな、ジュン。大丈夫。大丈夫。
最上階でチン、と鳴って止まり、その音だけで心臓が小さく跳ね上がった。
降りると、黒く燻んだガラスが並ぶ廊下だった。ここのカーペットは厚い。足音まで静かで、どの表面もつるりと光っている。
ポールが突き当たりの両開きの扉を示した。「あそこだ。幸運を。あと、早々にクビにならないでくれよ」半分笑って、半分は懇願するように言う。
そして彼は去った。まるで腹をすかせた魚の群れに餌を投げ込んだみたいに。(私が大げさなのは分かってる)
残ったのは私だけ。
扉を押す。開かない。最悪。押すんだっけ、引くんだっけ? 引いてみたら、開いた。よくやった、ジュン。
見える……
彼はオフィスのいちばん奥に立っていた。こちらに背を向け、スーツの上着は脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっている。窓の外を見ている姿は、地平線まで自分のものだと言わんばかりだ。実際、そうなのだろう――だって彼は、この街でいちばん大きな企業の最高経営責任者なのだから。
でも、待って……あの背中を知っている。あの肩の傾きも。血管の浮いた腕も――見覚えがありすぎる。数日前、頭から追い出そうとしていたはずなのに。
彼がゆっくり振り向き、私は立ち方を忘れた。
やっぱり。氷の下の金属みたいな、石板色の瞳。
ぴくつく顎。ホテルの男だ。忘れようとした夜の、あの男。
彼が私を見つめ、私も見返そうとする。
どちらも一言も発さない。沈黙が、割れ目の入ったガラスみたいに広がって、今にも砕けそうだ。
彼の表情は動かない。けれど顎が、ほんの少しだけ硬くなる。それが分かる程度には。
私は息をするのをやめたのかもしれない。
二日前、ホテルのマットレスに私を押しつけた男。名も告げずに去っていった男。まるで私だけが彼を生かしているみたいに触れてきた男が――
新しい上司だ。エイペックス・コーポレーションの最高経営責任者。
私の視線が、彼の前に置かれた金色のネームプレートへ落ちる。エルメス・グランデ――それが彼の名。
そして彼は、私を知らないみたいに見る。
私が、もう彼を知っているのに。
完全に終わった!!! 言わなくていい、分かってる……代わりに私が言う。
私、上司と寝たの???
