第2章
翌日の午前2時半。私はデスクに座り、コーヒーカップを指が白くなるほど強く握りしめていた。ラジオは机の隅で静かに、あの馴染みのある声を待っている。
『また彼がやるつもりだわ。どうして私のことをそんなに知っているの? これが偶然なわけがない』
「こんばんは、夜更かしな子羊たち。拓海です。今夜もまた、真夜中のセレナーデをお届けしましょう」
心臓の鼓動が早鐘を打つ。だが今回は、そこに恐怖が入り混じっていた。
「今夜は、あるとても特別なリスナーのために、特別なものを用意しました」
フランク・シナトラの『ザ・ウェイ・ユー・ルック・トゥナイト』が流れ始めた。
「Sさん、この曲は君のためだ。昨夜、君が窓から夜景を楽しんでくれたことを願うよ。僕が、君が真実を知るのを見て楽しんだのと同じくらいにね」
「明日は君のためにシェイクスピアのソネットを朗読しよう。お聞き逃しなく、S。まだ伝えたいことがたくさんあるんだ」
私はラジオを消した。胸の中で恐怖と好奇心が激しく鬩ぎ合っていた。
第三夜。近づくなと叫ぶ理性の声を押し殺し、私はまたラジオの前にいた。
「君を夏の一日にたとえようか? 君はそれより美しく、穏やかだ……」
拓海の声は深く、磁力を帯びていて、ひとつひとつの言葉が私の神経を優しく撫でるようだった。
不本意ながらも、私はいつの間にか微笑んでいた。
第七夜、彼はリスナーの恋物語を紹介し始めた。
「あるリスナーからの手紙だ。会ったことのない人に恋をしてしまったと言うんだ。Sさん、君はこういう愛もありだと思うかい?」
第十五夜。
「Sさん、マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』を選んだよ。君は深夜のブルースが好きそうだからね。君は午前3時に人生の意味について考え込むような女性だろう?」
彼の言う通りだ。私はまさにそういう人間だった。
第二十夜、彼はラブレターの抜粋を読み始めた。
「『愛しい人よ、君に会ったことはないけれど、君の魂が星明かりよりも輝いていることは知っている』」
私は毎晩、この瞬間を待ちわびるようになっていた。仕事中も、今夜彼が何を語るだろうかと、うわの空で考えてしまう。
「響子、最近上の空ね。彼氏でもできた?」
休憩室で同僚の佐藤が尋ねてきた。
「バカ言わないでよ、ただ……不眠症が少しマシになっただけ」
私は必死に否定した。
だが、佐藤の目は疑いに満ちていた。
「本当に? 最近一人で思い出し笑いしてるし、毎晩進んで残業してるじゃない」
「遅くまで働くのはいつものことよ」
「ええ、でも今のあなたは……何かが違う。まるで誰かを待っているみたい」
私は休憩室から逃げ出した。佐藤の言う通りだ――私は確かに誰かを待っていた。会ったこともない、けれどなぜか私のことを知っている誰かを。
第二十五夜、私は午前2時半の10分前から周波数を合わせ始めた。
第二十八夜、鏡で身だしなみをチェックしている自分に気づき、なんてバカげているんだろうと思った――もっとも、どうやら彼には私の姿が見えているようだけれど。
第三十一夜、私は彼の声を聞くのが待ちきれなかった。
「Sさん、これで31回目のデートだね。覚えているかい? 君が初めて電話をくれた時、その声は疲労と孤独に満ちていた。今、その孤独が少しでも癒やされていることを願うよ」
彼は毎晩のことをすべて覚えていた。私と同じように。
第三十三夜。
午前3時17分、いつものように42階のオフィスに座り、コーヒーから湯気が立ち上っている。拓海の声が流れてきたが、今回は何かが違っていた。
「こんばんは……Sさん」
彼は長い沈黙を置いた。その声は深刻な響きを帯びていた。
「Sさん、いや、白銀さんと言うべきかな」
コーヒーカップが手から滑り落ち、焦げ茶色の液体がデスクの上の書類に広がった。私は弾かれたように椅子から立ち上がり、耳障りな音が響いた。
「えっ?」
震える声でラジオに向かって叫ぶ。
「響子、毎晩午前4時まで仕事をしているね」
私は恐怖に駆られて窓の方を見たが、そこには闇しかなかった。
「どうしてそんな細かいことまで? 私を監視しているの?」
「怖がらないで、響子。危害を加えるつもりはないんだ。この33日間、僕は君に真実を伝えるための適切なタイミングを待っていた」
「あなた、一体誰なの?」
「3年前、あの買収案件の夜を覚えているかい? 42階、午前3時半、君は全面ガラスの窓際に立って電話をかけていただろう?」
あの夜……。
「今、君が混乱し、怯えているのは分かっている。でも知ってほしい、これは偶然じゃないんだ。僕たちの繋がりは、君が想像するよりも深い」
「明日の夜、君を特別な場所へ招待したい。もし君がまだ聞いてくれているなら、もし答えが欲しいなら」
「待って、勝手にそんな――」
チャンネルからはソフトなジャズが流れ出し、拓海の声は消えた。
私は椅子に崩れ落ちた。心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っている。こぼれたコーヒーが書類に染み込み、黒いシミを作っていた。
『彼は私の名前も、仕事も、過去も知っている……今私が着ている服さえ知っているの?』
その考えに背筋が凍りついた。
私は窓ガラスに歩み寄り、街の夜景を見つめた。数千の灯りの中に、私を見つめる瞳があるのだろうか?
『33日間の告白――そのどれもが偶然じゃなかった。でも、なぜ私を選んだの? 彼は何を望んでいるの?』
恐怖と好奇心が心の中で絡み合う。33夜もの間、私を待ち焦がれさせたこの拓海という見知らぬ男は、突如として恐ろしく、そして謎めいた存在へと変わってしまった。
