第3章
一晩中、ろくに眠れなかった。
拓海の声が、頭の中で何度も繰り返されていた。
翌日の午後、私は無理やり仕事に集中しようとしていた。
「白銀さん?」
入り口から秘書の佐藤の声がして、私は顔を上げた。
「拓海さんという方がお見えです。お約束があるとのことですが?」
私の手は空中で凍りつき、ペンを取り落としそうになった。
「通して……彼を通して」
ドアが開き、一人の男が入ってきた。
覚悟はしていたつもりだった。だが、実際に彼を目にすると、私の脳は数秒間ショートしてしまった。想像していたよりも若かった。おそらく三十代前半だろう。少し乱れたダークブラウンの髪に、シンプルな紺色のデニムジャケット。何より驚いたのは、彼の瞳だった。深い茶色で、私には覚えのある温かさを宿していた。あの深夜の放送で耳にした声と、まったく同じ温かさだ。
「こんにちは、響子」
彼は微笑んで言った。
「拓海です」
私は平静を装おうと必死になりながら、ペンを机に置いた。
「どうやって私を見つけたの?」
彼は私の向かいの椅子に座った。まるで旧知の友人のように自然な仕草だった。
「ストーカーじゃないよ。もしそれを心配しているならね。君の仕事のスタイルや、公開されているレポートから推測したんだ」
「どういうこと?」
「『リーガル・ウィークリー』のインタビュー記事があっただろう。それに、君が担当した森山合併案件だ。君はメールで『複雑な企業再編の案件に取り組んでいる』と書いていた。時期が完全に一致したんだ。それに……」
彼は言葉を区切った。
「君の都会の夜景の描写は独特だ。『法廷のスポットライトのようなネオン』なんて、弁護士以外に誰がそんな例えをする?」
私は彼を見つめ、その表情に欺瞞の影を探そうとした。だが、そこには誠実さしかなかった。
彼の言う通りだ。確かにあのメールで森山の案件に触れてしまった。
「わかったわ」
私は言った。
「私を見つけたのね。で、どうしたいの?」
拓海は身を乗り出し、その茶色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「君をスカイツリーに招待したい。今夜、日没の時刻に。もし僕の説明を聞いてくれる気があるなら」
「説明って、何を?」
「なぜ僕が君を見つけ出さなきゃならなかったのか。この三十三回の夜が、僕にとってどんな意味を持っていたのかを」
彼は立ち上がった。
「スカイツリー、、六時半。待ってるよ」
彼は立ち去ろうとして、足を止め、振り返った。
「響子、馬鹿げてるってわかってる。でも、リスクを冒す価値があることだってあるんだ」
そう言って彼は行ってしまった。法的文書の山に埋もれた会議室に私一人を残して。心臓がドラムのように激しく高鳴っていた。
その日の夕方、六時二十五分。私はスカイツリーの八十六階にある展望台の入り口に立っていた。
(私、一体何をしてるの? 正気じゃないわ)
それでも、足は勝手にここへ向かっていた。好奇心か、あるいは別の何かが理由かもしれない。
展望台は観光客で混み合っていた。太陽がゆっくりと西に沈みかけていて、東京の街全体を黄金色のオレンジに染め上げている。西側の手すりのそばに立っている拓海の姿が見えた。服を着替えていて、今は黒のカジュアルなジャケットを羽織っている。
私に気づくと、彼の顔が輝くような笑顔で満たされた。
「来てくれたんだね」彼は言った。
「気が変わるかもしれないと思っていたよ」
「自分でもそう思ったわ」
私は彼に歩み寄った。
「ここが、あなたの特別な場所?」
「ああ」
彼は遠くのスカイラインを指差した。
「この景色を見て。ここからなら街全体が見渡せる。君の法律事務所のビルもね。毎晩、君が僕にメールを書いてくれている場所だ」
彼の指差す先を目で追うと、確かに九条法律事務所のビルが見えた。この角度から見ると、とても小さく見えた。
「拓海、どうしてこんなことをするの? 私たち、お互いのことを何も知らないのに」
彼は私の方を向き、表情を真剣なものに変えた。
「でも、僕たちは三十三回の夜を知っている。この街の誰よりも、僕は君の真夜中の孤独を理解しているつもりだ」
風が私の髪を吹き抜け、私はジャケットをきつく引き寄せた。
「あんなのただの……ただのメールよ」
「いや」
彼は首を横に振った。
「あのメールには、君の本当の魂が込められていた。君は心の奥底にある恐れや、夢、人生についての考えを僕に語ってくれた。君はただの言葉の羅列だと思っているかもしれないけれど、僕にとって、あれは君の心そのものだったんだ」
胸が締め付けられるような気がした。彼の言う通りだ。私は確かに、あのメールに個人的なことをたくさん書き連ねていた。
「どうして赤の他人を、そんな相手に選んだりしたの?」私は尋ねた。
拓海は手すりに寄りかかり、遠くを見つめた。
「真夜中にメールをくれる女性に恋をしてしまったからさ。弁護士の白銀響子としてじゃなく、午前二時に『一人で死ぬのが怖い』と打ち明けてくれる、その魂にね」
私の鼓動がまた速くなり始めた。
「そんな……どうかしてるわ」
「ああ」彼は笑った。
「でも、最高に美しいものっていうのは、たいていどうかしてるもんだよ」
街の明かりが一つまた一つと灯り始め、空は次第に闇に包まれていった。展望台の観光客はほとんど去り、残っているのはまばらだった。
突然、拓海がジャケットのポケットから何かを取り出した。小さなポータブルスピーカーだ。
「拓海、何をするつもり?」
私は不安になった。
彼はその場に片膝をついた。
私の世界が止まった。
「嘘、ちょっと待って、やめて、こんなところで……」
私は慌てて言った。
だが、彼はすでにスピーカーのスイッチを入れていた。
「レディース・アンド・ジェントルメン」
スピーカーを通した彼の声が、展望台全体に響き渡った。
「皆さんに、あることの証人になっていただきたいんです」
残っていた観光客が一斉に振り向き、その顔に好奇心を浮かべた。到着したばかりの数人の客も足を止めた。
(嘘でしょ、何やってるの?)
「白銀響子さん」
拓海はスピーカーを掲げ、私を見つめて言った。
「深夜放送のDJと、結婚してくれますか?」
展望台がどっと沸いた。中年女性が興奮して夫の肘をつついている。
「見て、プロポーズよ!」
「この美しい女性は」
拓海はスピーカーに向かって続けた。
「僕の深夜のすべてを救ってくれました。彼女のメールは、僕の暗い時間を照らす星明かりのようだった。今度は僕が、彼女の残りの人生を守りたいんです」
「イエスって言え! イエスだ!」
見物人たちがはやし立て始めた。
私は立ち尽くし、世界がぐるぐると回っているような気分だった。あまりに常軌を逸していて、あまりに現実離れしている。けれど、拓海の瞳を覗き込むと、そこには三十三回の夜の寄り添いがあった。理解に満ちた言葉があった。そして、本物の愛があった。
このイカれた男は、私のために本当にここまでやってのけたのだ。
涙で視界が滲んだ。
「あなたって人は……とんでもない狂人ね」
「響子?」
彼の声がわずかに震えた。
「馬鹿げてるのはわかってる。でも、もう待ちたくないんだ。この三十三回の夜が確信させてくれた。僕は残りの人生を君と過ごしたい」
私は彼を見た。スカイツリーの頂上で、東京中の人々に愛を叫ぶこの男を。あの深夜のふれあいを、彼の温かい声を、私がもう一人ではないと感じられたあの瞬間を思い出した。
狂っているのも、案外悪くないかもしれない。
私はゆっくりと頷いた。
「ええ」
感極まって声を詰まらせながら、私は言った。
「喜んで」
展望台が割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。拓海は興奮して立ち上がり、スピーカーを切ると、私を強く抱きしめた。
「白銀響子」
彼は私の耳元で囁いた。
「僕の真夜中の女王様。愛は電波を超えて届くって、君が信じさせてくれたんだ」
私は彼を抱きしめ返し、その温もりを感じていた。スカイツリーの最上階、きらめく東京の光の中で、私はかつてないほどの理解と愛を感じていた。
「愛してるわ」私は彼に告げた。
「このイカれたDJさん」
「僕も愛してる」彼は答えた。
「僕の勇敢な弁護士さん」
彼は私にキスをした。スカイツリーの夜風の中で、東京の光の海に囲まれて。私たちのキスは、この街への宣言のようだった。愛は本当にどんな距離も、電波の距離さえも超えられるのだと。
しかしその瞬間、私は知る由もなかった。この完璧な幸福が、まもなく試練に直面することになるなんて。ただ、この瞬間だけは、私が世界で一番幸せな女だと感じていた。
