第1章

「林さん、本当にもう一度だけ、お考え直しいただけませんか?」

受話器の向こうで、医師の声が重なる。

「たしかに現在は肺がんの末期です。ですが、決して希望がないわけではありません。まだお若いですし、積極的に治療を続ければ可能性はあります。それに、お子さんもまだ小さいと……」

林夕葵は視線を落とした。腕の中にあるのは、もうすっかり冷たくなってしまった小さな体。いちばん好きだった宇宙飛行士風の上着を着て、静かに目を閉じている。その姿は、まるで眠っているようだった。

「治療はやめます」

声は、ぞっとするほど穏やかだった。

「それから、臓器提供の同意書にも署名します」

「ですが、お子さんが……」

「うちの子は、もう母親を必要としていません」

林夕葵はやわらかく遮り、指先で息子の冷たい額を撫でた。

「もう、二度と」

通話を切ると、火葬場の休憩室にある長椅子へ携帯を投げた。そこでようやく、自分が崩れることを許した。

彼女は辰樹の小さな体をきつく抱きしめた。肩が激しく震える。喉は裂けそうなのに、声にならない。ただ熱い涙だけがとめどなくこぼれ、すでに冷えきった前髪を濡らしていく。

辰樹の最期が脳裏によみがえる。いつもきらきらしていた大きな瞳はもう光を失い、最後の力を振り絞るように囁いた。

「ママ……パパ、いつ来るの? ぼく、パパに会いたい……」

林夕葵は胸が痛すぎて、息もできなかった。

震える手で再び携帯を拾い上げ、指が覚えきってしまった番号へかける。ほとんど繋がらない番号。それでも――。

コール音が長く続いたあと、ようやく通じた。

「何だ」

秦野彰の声は、氷みたいに冷たかった。

林夕葵は深く息を吸い込み、胸の奥で暴れ狂う悲しみを必死に押し殺した。喉が詰まり、声が震える。

「彰、辰樹が……辰樹が……」

「夕葵、そんな話に付き合ってる暇はない」

苛立ちを隠そうともしない声が、途中で遮る。

その瞬間、受話器の向こうから甘ったるい女の声が割り込んだ。

「彰、安吾が抱っこしてほしいって。次は何に乗る?」

「パパ、だっこ!」

林遥香の声だった。妹。そして、秦野彰がずっと忘れられなかった女。

林夕葵は息を呑んだ。電話の向こうでは、はしゃぐ笑い声が聞こえる。

――遊園地だ。

「……遥香と一緒にいるの?」

問いかけると、秦野彰は冷ややかに言い返した。

「それがどうした。お前に口を出す資格があるのか?」

林夕葵の声がかすかに震える。

「今日、辰樹の誕生日なの。知ってる?」

「いい加減にしろ、夕葵。お前が何を企んでるかくらい分かる。辰樹を会社に寄こして、同情でも買うつもりか。そういうやり口は心底くだらない。これ以上続けるなら、離婚だ」

離婚。

その言葉が、鋭い刃みたいに心臓へ突き刺さった。

――辰樹は、午後、父親に会いに行ったのだ。

重い再生不良性貧血を抱え、少し歩くだけでも息を切らすあの子が。たったひとりで半分もの街を越え、父親に会いに行く途中で、命を落とした。

林夕葵は腕の中で固くなりつつある小さな体を、いっそう強く抱きしめた。胸が潰れそうで、まともに息も吸えない。

「秦野彰」

声がふいに、死んだみたいに静かになる。

「離婚しましょう。今夜、帰ってきて署名して」

返事を待たず、通話を切った。

携帯が手から滑り落ちる。林夕葵は息子のもう硬くなった小さな頬へ自分の頬を押し当て、堰を切ったようにまた涙を流した。

「ごめんね、辰樹……ママが悪かった。最初から、全部間違ってた」

五年前、政略結婚のような形で彼に嫁いだ。何年も胸に秘めてきた片想いを抱えたまま。それでも分かっていた。彼は自分を好きではない。

自分が努力し続ければ、いつか変えられる。そう信じていた。けれど、秦野彰の心を温める前に、彼にとっての高嶺の花――海外へ行っていた林遥香が、二歳の息子を連れて先に帰ってきた。

それからというもの、秦野彰の目に映るのはあの母子だけだった。自分たち母子は、何度も何度も置き去りにされた。

辰樹を出産したときでさえ、秦野彰は病院に来なかった。

この数年、病弱な息子を気にかけたことなど、一度もない。

それでも辰樹は、ずっと父親の愛を欲しがっていた。

林夕葵は涙を拭い、辰樹の額にかかる髪をそっと整えた。

この五年間、彼女は働いて金を稼ぎながら、辰樹を連れて病院を転々とした。秦野家は裕福なのに、秦野彰は子どもの治療費を一円たりとも出さなかった。

そして今日――ようやく移植手術の費用を揃えられたとき、辰樹は嬉しそうに彼女へ抱きついて言った。

「ママ、手術が終わったら……パパ、元気になったぼくのこと、好きになってくれるかな?」

あの瞬間、心が粉々に砕けた。

でも、もう遅い。

火葬場の職員が近づいてきた。

「林さん、お時間です」

林夕葵の全身がびくりと震える。抱く腕に力を込め、それから少しずつ、少しずつ緩めていった。

最後にもう一度だけ、冷たい額へ口づける。

子どもは白布を敷いたストレッチャーへ移され、そのまま焼却炉へと運ばれていく。林夕葵はその小さな姿を見つめ、涙を止めることができなかった。

どれくらい経ったのか。灰色に曇った空を窓越しに見つめながら、彼女はぽつりと呟く。

「辰樹……もう少しだけ待ってて。ママ、すぐそっちに行くから」

……

夜。

林夕葵が扉を押し開けたとき、全身は雨でぐっしょり濡れていた。

玄関で顔を上げると、ソファに腰かける男の姿が見えた。

秦野彰は脚を組み、ドアの開く音に目だけを上げる。視線は氷のように冷たい。

「また芝居か」

濡れ鼠みたいに入ってくる彼女を見下ろし、薄い唇から嘲りが零れた。

林夕葵は答えなかった。ただ機械みたいにコートを脱ぐ。

この五年、何をしても彼の目には演技にしか映らなかった。

良き妻の芝居。良き母の芝居。被害者の芝居。

――あのときだって、そうだった。

秦野秋彦が重病に倒れ、彼女に秦野彰との結婚を願い出た。学費を援助してくれた恩は大きすぎた。断れるはずがなかった。

それに、心の奥ではずっと秦野彰を好きだった。

あの頃、彼女はすでに名門大学の合格通知を手にしていた。それでも恩返しのため、そして少しの叶わぬ夢のため、ためらいもなく手放した。

だが後になって知った。秦野彰の心にいたのは、自分の妹――林遥香だった。

彼は最初から、自分と結婚するつもりなどなかったのだ。

身を引くべきか迷っていた矢先、事故のような出来事が起きた。

薬を盛られ、目を覚ました先は秦野彰のベッドの上。向けられたのは、吐き気を堪えるような嫌悪の眼差しだった。

「違うの……」嗄れた声で訴える。「私も、被害者で……」

「林夕葵、お前は気持ち悪い」

秦野彰の言葉は、氷の針みたいだった。

「こんな卑劣な手まで使うのか」

彼は金を渡して終わらせるつもりだった。だが、一か月後に妊娠が分かった。

秦野秋彦が秦野彰を押さえつける形で、結婚は成立した。

けれど結婚してからも、秦野彰は取り繕おうとすらしなかった。彼女には冷たく、まだ生まれてもいない子どもにも無関心だった。

子ども――。

辰樹を思うだけで、胸の痛みはさらに深くなる。

子どものために、離婚だけは引き延ばしてきた。いつか秦野彰が振り返り、この家を、この血の繋がった子どもを見てくれると信じて。

でも、辰樹は死ぬまで父の愛をひとかけらも知らなかった。

胸がきりきりと引き攣れ、耳の奥で辰樹の声がまた響く。

「ママ……ぼくのせい? だからパパ、帰ってこないの?」

「ぼくが生まれなかったら……パパ、ママのこと嫌いにならなかった?」

「ママ、ぼくもう行くね……もうパパの邪魔しない……幸せになってね……」

雨と涙が頬を伝って落ちる。

もっと早く辰樹を連れて出ていれば、何か変わっていたのだろうか。

「もういい」

秦野彰が苛立たしげに、その沈黙を断ち切った。

「夕葵、わざわざ俺を呼び戻したのは、その芝居を見せるためか? そんな顔をされるほど、ますます嫌いになる」

林夕葵は目を上げた。

鞄から書類を取り出し、テーブルの上へ置く。

「離婚しましょう」

秦野彰が一瞬だけ動きを止める。だがすぐ、鼻で笑った。

「またその手か」

書類を手に取り、投げやりに目を通す。けれど、その顔色は次第に変わっていった。

内容は簡単だった。林夕葵は何も求めていない。

財産分与も。扶養も。秦野家のものは、何ひとつ。

「……何もいらない?」

刃のような視線が突き刺さる。

「この家だけか?」

「そうです」

林夕葵はきっぱりと言った。

秦野彰が笑う。

「夕葵、引いて見せるのは上手いな。分かってるのか? この家がどれだけの価値か。現金を要求するより、よほど賢い」

「安心して」

林夕葵はその視線を受け止め、一語一語を噛みしめるように言った。

「私が死んだら、この家はあなたに返します」

秦野彰の目がわずかに細まる。けれど次の瞬間には、さらに深い嘲笑に変わった。

「芝居もここまで来ると大したものだな。死ぬことまで駆け引きに使うのか」

林夕葵は何も説明しなかった。

ここには、辰樹の気配が残っている。自分に残された最後の時間を、ここで過ごしたかった。

「ペンを」

手を差し出す。掌を上に向けた指先は、かすかに震えていた。

秦野彰は一度じろりと彼女を見てから、ポケットから万年筆を取り出した。

林夕葵は無言でそれを受け取り、書類の最終ページを開く。そして女側の署名欄へ、迷いなく自分の名前を書き込んだ。

整った字で、淡々と。

一度も彼を振り返らず、そのまま階段へ向かう。

「明日、市役所で」

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