第3章
別荘の片づけをようやく終え、林夕葵は重い心と体を引きずるようにして林家へ戻った。
もう二度と帰りたくない家だった。けれど、辰樹の事故だけは放っておけない。
加害者の運転手があまりにも早く保釈された。その裏で、相当な力が動いたに違いない。
脳裏に浮かぶのは、地位こそ高いくせに、娘である自分には他人のように冷たい父――林国男。
この件で圧力をかけられるとしたら、たぶん、あの男しかいない。
林家の庭へ足を踏み入れた瞬間、胸の奥にひやりとした違和感が走った。
見慣れているはずの場所なのに、まるで他人の家みたいだった。
あちこちに、別の母子が暮らしている痕跡がある。ブランコでさえ、いつの間にか男の子向けのものに替えられていた。
ふと、彼女の視線が庭の隅のゴミ箱のそばで止まる。
そこに散らばっていたのは、砕けた陶器の欠片だった。
心臓がどくんと大きく跳ね、林夕葵はよろめきながら駆け寄る。
辰樹が去年、自分と母のために作ってくれた素焼きのカップだった。
焼きは甘く、形もいびつ。それでも表面には、拙い手つきで「ママ」と「おばあちゃん」の絵が描かれていた。
あのとき母は、ろくに見もせずに物置へ放り込んだだけだった。
まさかこんなふうに、ゴミ同然に捨てられているなんて。
そのうえ、さらに血の気が引く光景が目に入る。
林遥香の息子、安吾が、その陶器の欠片へ向かってズボンを下ろし、平然と小便をしていたのだ。
けらけら笑いながら。
「きたなーい。へんなの」
「やめて!」
林夕葵は目を見開き、喉が裂けるほどの声で叫んだ。そのまま駆け込み、力いっぱいそのふくよかな子どもを突き飛ばす。
安吾は「うわあっ」と派手に転び、地面に尻もちをついて大声で泣き出した。
「どうしたの?」
家の中から林遥香の声が飛ぶ。すぐに駆け出してきて、泣きじゃくる息子を抱き上げると、林夕葵を見た瞬間、その目がすっと険しくなった。
「あんた! 何してるの? どうして安吾を突き飛ばすのよ!」
「この子が、うちの子の形見に何したか見えないの?!」
林夕葵は小便で濡れた陶器の欠片を指さし、体を震わせながら叫ぶ。
「辰樹が残したものなのよ!」
林遥香は地面を一瞥しただけで、悪びれもしなかった。むしろ、鼻で笑う。
「ただのガラクタでしょ。安吾が少し遊んだくらいで大げさね。病弱な子が作った不格好なものに、そんな騒ぐ価値あるの?」
吐き捨てるように言うと、邪魔だと言わんばかりに、ハイヒールの踵でその欠片をぐりっと踏みつけた。
ぱきっ、と乾いた音がする。
もともと脆かった陶器は、あっけなく砕けて泥にまみれた。「おばあちゃん」の絵も、そのまま地面へ押し潰される。
「林遥香!!」
その瞬間、林夕葵の中で何かがぷつりと切れた。
目を真っ赤に染め、勢いよく手を振り上げる。林遥香の頬を張ろうとした、その刹那――
林遥香の目に、あざとい光がよぎった。
林夕葵の手が頬に届く寸前、わざとらしく大きく身をのけぞらせ、悲鳴を上げる。
「お姉ちゃん! どうして私を叩こうとするの? 私のことが憎いのは分かるけど、安吾はまだ子どもなのに……!」
ちょうどそのときだった。騒ぎを聞きつけた林国男と林貴晴、それに、いつの間に来ていたのか秦野彰までが、一斉に家の中から出てくる。
「夕葵! 何をしてる!」
林国男の低い叱声が飛ぶ。
林貴晴は慌てて林遥香を支え、そのまま林夕葵をきつく睨みつけた。
「夕葵、遥香に手を上げるなんてどういうことなの!」
秦野彰の視線も、顔色をなくして歪んだ林夕葵の顔に落ちる。眉間には深い皺。目の奥には隠そうともしない嫌悪があった。
林遥香は涙をぽろぽろこぼしながら、しゃくり上げる。
「お姉ちゃん、怒ってるなら私にだけぶつけて……安吾を怖がらせないで。お姉ちゃんは何でも持ってるのに、どうしてお父さんとお母さんまで私から奪おうとするの?」
「何でも持ってる?」
林夕葵は、目の前の光景を見て、ふっと笑った。
冷たい父。自分だけを責める母。そして、よその女と子どもを庇う夫。
「林遥香、奪ったのはどっちよ。子どもの頃から、私のおもちゃも、私の部屋も、両親の関心も……あなたが奪わなかったものなんてあった? 今度は夫まで奪うの? よくそんなこと言えるわね。いったいどっちが、誰の子どもを傷つけてるのよ!」
一歩、また一歩。前へ出るたび、言葉は血を吐くみたいだった。
長年押し込めてきた感情が、ついに堤防を破って溢れ出す。
林遥香はその憎しみに気圧されたのか、安吾を抱いたまま思わず後ずさる。ヒールがもつれ、体がぐらりと傾いた。
「遥香!」
秦野彰がすぐさま駆け寄り、林遥香と安吾をしっかり支え、そのまま庇うように抱き寄せる。
そして林夕葵へ向き直った目は、氷みたいに冷たかった。
「もういい加減にしろ。子どもを突き飛ばして、遥香にまで手を上げて……まだ何をする気だ。心底、失望した」
「やなやつ! ぼくを押した! ママも叩こうとした!」
守られていた安吾が急に林遥香の腕を振りほどき、泣きながら林夕葵に向かってくる。小さな拳で彼女の脚をぽかぽか叩いた。
だが地面には、さっき自分で撒いた小便がまだ残っていて、足元はぬかるんでいた。
安吾はつるりと滑り、そのまま膝を打って転ぶ。
「うわああああん!」
「安吾!」
林遥香が悲鳴を上げる。
「夕葵! こんな小さい子にまで何するの?!」
「なんて子だ……! 本当に性根が腐ってる!」
林国男も林貴晴も顔を青くし、口々に林夕葵を責め立てた。
秦野彰は泣き叫ぶ安吾を抱き上げ、林夕葵を見る目をさらに冷え込ませる。
「夕葵、お前がここまで陰険で悪質な人間だったとは思わなかった。本当に失望した」
家族の誰もが、自分を責めている。
その現実に、林夕葵は唇を強く噛み、うつむいた。
冷たい風が、薄い背中を撫でていく。
ぽた、ぽた、と涙が落ちる。辰樹の陶器の残骸へ染み込んでいくのに、声ひとつ出ない。
胸の真ん中が空っぽになったみたいに痛い。痛くて、その場にうずくまりそうだった。
「もういい」
そのとき、林国男が低く言った。
「夕葵、騒ぐだけ騒いで気は済んだか。で、今日は何の用で戻ってきた」
林夕葵は手の甲で頬の涙を拭い、かすれた声を絞り出す。
「辰樹が……交通事故に遭ったの」
庭が、一瞬しんと静まった。
林遥香はまるで冗談でも聞いたかのように、赤い目のまま口元を歪める。
「お姉ちゃん、何言ってるの? みんなの気を引きたいからって、そんな嘘までつくの? さすがに――」
秦野彰の眉間の皺が、さらに深くなる。
「嘘じゃない!」
林夕葵の声が鋭く跳ね上がった。彼女は秦野彰をまっすぐ睨みつける。
「あなたの息子は死んだの! あなたに会いに会社へ行く途中で!」
秦野彰の眼差しから、最後の温度まで消えた。
「夕葵。目的のためなら、そこまでやるのか。自分の子どもまで呪いの種にするなんてな」
林夕葵の空っぽだった目に、ぼっと火が灯る。
「私は嘘なんかついてない!」
喉を裂くように叫んだ。
「辰樹は本当に死んだの! 信じないなら調べればいいでしょ! 交通課に行って、火葬場に行って、確かめてよ!」
「もういい!」
秦野彰が鋭く怒鳴る。
彼女の目に宿る剥き出しの憎しみに刺され、一瞬だけ胸が詰まった。
だが、すぐにその違和感を振り払うように、冷たく吐き捨てる。
「何を演じてる。夕葵、いい加減やめろ」
そう言ってスマホを取り出し、画面を彼女に向けた。
そこには、辰樹とのメッセージ履歴が映っている。
昔から、節目のたびにあの子は父親へ挨拶を送っていた。
けれど秦野彰は一度も返さなかった。読むことさえ滅多になく、ただ煩わしいとしか思っていなかった。
なのに画面には、ほんの10分ほど前の新しいメッセージがあった。
「パパ、無理しないでね」
林夕葵は息を呑み、目を見開く。思わず駆け寄って確かめようとするが、秦野彰はすぐさまスマホを引っ込めた。
そのとき、それまで冷ややかに見ていた林国男が、何かを察したように声を沈める。
「夕葵……まさか、加害者が保釈されたからって戻ってきて、息子が車に轢かれて死んだなどと嘘をでっち上げたのか?」
ひどく痛ましげに首を振る。その目には、私欲のためなら何でもする娘を見る軽蔑があった。
「何が狙いだ。父親の私に司法へ口を出させて、運転手を厳罰にしろと? それは職権乱用だ。甘えるのもいい加減にしろ。私は誰のためにも、ましてお前のためになど、法を曲げたりはしない」
林夕葵は、正義を語る父の顔を、ぼんやりと見つめた。
その瞬間、世界が音もなく崩れ落ちた気がした。
「……あは……」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。
「ははっ……ははは……」
肩が震える。どうしようもない絶望の笑いだった。
秦野彰はそんな彼女を見て、理由の分からない胸の痛みを覚えた。
けれど次の瞬間、林遥香が不安げに彼の腕へしがみつき、その意識は引き戻される。
秦野彰は目を伏せ、余計な動揺を押し殺すように息を整えた。そして再び、氷のような冷たさを取り戻す。
「本当におかしくなったみたいだな」
声は低く、凍えていた。
「夕葵。お前みたいに嘘ばかり吐いて、心まで歪んだ人間に、母親でいる資格なんてない」
「母親でいる資格がない?」
林夕葵は笑うのをやめ、ゆっくり顔を上げた。
頬には涙の跡が残っている。けれど目だけは、真っ直ぐに秦野彰を射抜いていた。
「秦野彰、目も心も腐ってるのはあなたよ。善悪の区別もつかない。耳障りのいいことだけ信じて、何ひとつ見ようとしない。夫として失格。父親としても失格。辰樹は……死ぬまであなたを待ってた」
その視線が、林国男と林貴晴へ移る。次に、秦野彰の腕の中に守られている林遥香へ。泣きわめく安吾へ。
そして最後に、強張った秦野彰の顔へ戻った。
「あなたたち……」
林夕葵は、ひどく静かに言った。
「気持ち悪い」
それだけ言い捨てると、もう誰の顔も見なかった。
踵を返し、そのままふらつく足取りで門へ向かって駆け出していく。
秦野彰はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
最後のひと言が、まるで足を地面に縫い止めたみたいだった。
無意識に胸元へ手を当て、眉をひそめる。
――なぜだ。
どうして、こんなにも息苦しい。
