第3章
周防凛が提出した退職願は、西原司のもとへは上がっていなかった。
西原司は周防凛に対して、終始一貫して「仕事は仕事」という態度を崩さない。
西原司の傍に十年付き従っている大村静也は、西原様が周防凛を嫌っていることをよく知っていた。
周防凛は――面倒な女だ。
西原様の気を引きたくて、前にも一度、退職騒ぎを起こしたことがある。
そのとき、大村静也は退職願を西原司に差し出した。
西原司は顔色ひとつ変えず、冷えた声で言った。
「好きにさせろ」
大村静也はへこへこと頷く。
「では、規定通りに進めます」
すると西原司は眉間に皺を寄せ、淡々と告げた。
「今後こういう申請は、俺に回すな。そんなくだらないことに割く時間はない」
大村静也は即座に返す。
「承知しました、西原様」
前例がある。だからこそ今回も大村静也は決めつけていた。
――また周防凛が騒いでいるだけだ、と。
人事部から退職願の確認電話が入っても、大村静也は鼻で笑った。
「手順どおりに処理してやれよ。どうせ裏で何か企んでんだろ」
「西原様があいつを嫌悪してるってのに、よくもまあ、あそこまでしがみつける。図太すぎるわ」
「断言する。1日も経たねぇうちに撤回申請して、犬みてぇに這い戻ってくる。西原様の前で尻尾振りながらな」
通話を切った、その直後。
コンコン、とドアが鳴り、周防凛が入ってきた。
「周防凛。この書類、広報に回しとけ」
大村静也がファイルを差し出す。
「それと報表も一本。明日の朝イチの会議で使う。今夜中に仕上げろ」
周防凛は視線を落とし、腕時計を一瞥した。
18時01分。
「大村助手、もう定時です。今日の私の担当業務も終えています」
「書類はご自分で。報表もご自分で」
「あなたと私の関係で、無条件に残業を引き受ける義理はありません」
言い捨てると、周防凛はバッグを手に取り、コツ、コツ、とヒールを鳴らしてオフィスを出ていった。
退職を決めた瞬間から、周防凛はあらゆる精神的な締め付けを拒んだ。
これまでの彼女は、みじめで臆病で――西原司のためなら、誰にでも頭を下げてきた。
だが、もう違う。
西原司を見限ったのだ。媚びる相手など、どこにもいない。
◇
帰宅すると周防凛は連絡先を開き、平岡貴利を見つけた。
LINEで短く送る。
『先輩、お久しぶりです。お元気ですか』
ほどなくして、平岡貴利からLINE通話がかかってきた。
「凛、最近どうしてる? またテック業界に戻る気はないか?」
声は明るいのに、切実さが滲む。
「AIはいま一番の突破口だ。伸びしろが桁違いだし、これからの潮流を作る」
「当時のお前は本当にもったいなかった。AI開発、トップレベルだったのに……男で捨てたんだからな」
惜しむ気持ちが、そのまま言葉になっていた。
二人は同じ研究室の出で、かつて一緒にAIプログラムを組んだ仲だ。平岡貴利は、周防凛の実力を誰より知っている。
周防凛は静かに言った。
「先輩、捨てるつもりはありません」
「最近、新しいプログラムを作りました。送るので、要件を満たしているか見てください」
そして、一拍。
「先輩、平岡グループに出資したいです」
平岡貴利が息を呑む。
「凛……本気か? 冗談はやめろよ」
卒業直後、彼は何度も彼女を誘った。だが周防凛は恋に溺れ、西原司との秘密の結婚と出産に飲み込まれて、その手を振り払った。
周防凛は迷わず頷く。
「本気です」
「どうした? 西原司にまた何かされたのか?」
「違います」
周防凛は感情を揺らさず、話を戻す。
「テストが終わったら送ります。受けるかどうかは、それから決めてください」
「分かった」
通話を切ると、周防凛はパソコンを開き、新プログラムの検証に没頭した。
コーヒーを淹れ、カップの湯気を横目に、夜が白むまで。
その間、スマホのリマインダーが何度も点滅する。
21:30『景冶にミルク』
22:00『景冶に寝る前の絵本』
22:30『司にデザート』
かつての生活は、西原司と西原景冶――父子を中心に回っていた。
一方通行の巨大な想いの中で、自我も尊厳も、薄く削れていった。
周防凛はリマインダーを開き、何年も積み上げてきた予定を、ひとつ残らず削除した。
彼らは最初から、自分を必要としていない。
しがみついていたのは、いつだって自分だけだ。
◇
西原家の邸宅。
深夜、西原景冶がはっと目を覚まし、ぐずって眠ろうとしなかった。
急に、お母さんが恋しくなったのだ。
残業で遅くまで起きていた西原司が泣き声を聞きつけ、部屋へ入って景冶を抱き上げる。
「……お母さんがいい……」
普段はうるさいと思っていても、血のつながりは誤魔化せない。骨のところで頼ってしまう。
周防凛が帰ってこない日が、もう何日も続いていた。
西原グループは大型案件の渦中で、総裁室は連日、遅くまで企画書に追われている。
西原司は周防凛が何をしているか知らない。ただ、彼女も残業しているのだろうと決めていた。
「景冶、いい子だ。お母さんは仕事が忙しいだけだ。落ち着いたら戻ってくる」
頭を撫で、低い声で宥める。
だが景冶はますます泣いた。
「でも……お母さんと一緒に寝たい……」
感情が頂点に達し、西原司の眉がわずかに寄る。
脳裏に浮かぶのは、周防凛の整った顔――そして、どこか煩わしさ。
「泣くな。前に温泉行きたいって言ってただろ。週末、連れていく」
景冶の目がぱっと輝いた。
「ほんと?」
「……ああ」
「じゃあ、美晴おばさんも来る?」
期待に満ちた視線に負けて、西原司は小さく頷く。
「来る」
「やった! また美晴おばさんと遊べる!」
美晴おばさんが一緒なら、お母さんへの恋しさも薄れる。
お母さんはうるさい。でも美晴おばさんは、景冶の望みを何でも叶えてくれる。
「じゃあ寝ろ」
「うん!」
寝息が整ったのを確かめてから、西原司は書斎へ戻った。
椅子に腰を下ろし、ふと室内を見回す。
いつもなら、周防凛が夜食や甘味を用意していた。食べなくても、用意することだけは欠かさなかった。
――この家から、周防凛の痕跡が少しずつ薄れている。
いなくなってせいせいするはずなのに、胸のどこかが落ち着かない。
西原司は眉間を揉んだ。
……大型案件で忙しいだけだ。
そう自分に言い聞かせ、視線をモニターへ戻す。
プロジェクト企画書の文字が、淡々と画面に並んでいた。
