第4章
翌日。
葉山美晴が突然風邪をひいて寝込んだ――そう聞くやいなや、西原景冶は西原司にまとわりついて「美晴おばさんのお見舞いに行く!」とせがんだ。
葉山美晴は熱で顔色が悪いのに、無理に笑って、景冶の相手をしながら玩具で三十分以上も遊んでやった。
それを見ていた西原司はさすがに心が痛み、景冶がそれ以上邪魔をしないよう切り上げさせる。
帰る段になって、美晴は景冶の小さな手を引き、玄関まで見送った。
車に乗り込んだ景冶は窓をすいっと下げ、身を乗り出して言った。
「美晴おばさん、ばいばーい!」
美晴は微笑んで、軽く手を振る。
「うん。気をつけてね」
車内に戻ると、景冶はスマホを抱え、さっそくアルバムを開いた。さっき美晴と撮った写真が、ずらり。
見れば見るほど顔が緩み、彼は横で書類に目を落としている父親に、きらきらした目を向けた。
「ねえお父さん、これからも美晴おばさんち、しょっちゅう行っていい?」
西原司は端正な眉目をわずかに動かし、息子を見る。
「景冶は美晴おばさんが好きなのか?」
景冶は首がもげそうな勢いで頷いた。
「好き! だいすき! 美晴おばさん、宇宙でいちばんいい人!」
――美晴おばさんは、本当にママよりずっとずっといい。
普段のママは厳しい。あれもダメ、これもダメ。少しでも失敗すれば、周防凛にきっちり言い聞かされ、叱られる。
でも美晴おばさんは違う。理由なんて要らないみたいに、いつでも受け入れてくれて、甘やかしてくれる。
ここ数日、ママに会っていないせいで、ほんの少しだけ恋しくなる瞬間はあった。
けれど、あの厳しい顔を思い出した途端、恋しさはすっと引いてしまう。
景冶はアルバムの画面を見つめたまま、ぼんやりした。
……そういえば、ママ、ずいぶん電話してこない。
前はどんなに忙しくても、朝と夜、必ず連絡があった。細かいことまで気にかけてくれて――景冶はそれを「しんどい」と思い、いつも適当に返事をしていた。
なのに、いざ鳴らなくなると、西原家のお坊ちゃまは不機嫌になる。
景冶は視線を落とし、小さな声で聞いた。
「お父さん。ママ、最近そんなに忙しいの?」
忙しすぎて、電話する時間もないの?
西原司は、その落ち込みを「母親への依存」だと受け取った。結局のところ、周防凛は景冶の実の母だ。
彼は息子の頭を撫で、落ち着いた声で言う。
「会社の大きな案件で、今は立て込んでる」
景冶は「案件」が何か分からない。だが、その瞬間。
美晴からLINEが届いた。
週末に温泉へ行くなら、どんな服を着るか――美晴がいくつも候補を並べて、好きなのを選んでいいと言う。
通知を見た途端、景冶の胸はぱっと明るくなった。さっきまでの沈んだ気分は、頭の中からころりと消えた。
ママも、そのうち暇になったら電話してくる。
前だって、言うことを聞かなかったら怒って無視してきたくせに、最後は結局、戻ってきて自分の世話をしてくれたじゃないか。
景冶は確信していた。周防凛が自分を本気で嫌いになることなんて、一生ない。
だって、ママなんだから。何があっても、無条件に許してくれる――そういう存在のはずだ。
◇
一方の周防凛は、西原グループの大型案件などで忙殺されてはいなかった。
彼女は新しくついた秘書の雨村と引き継ぎを進め、毎日きっちり定時で出退勤する。
それ以外の時間は、ひたすら自分の新しいプログラムを磨き上げていた。寝る間も惜しむ勢いで。
一週間後。
周防凛は最新テストを終え、資料一式を整えて、約束通り平岡貴利へ送信する。
反応は早かった。内容を確認した平岡は、間髪入れずに協業の誘いを投げてくる。
「天才・周防さん。今、時間ある? 出てきて、合作の話しよう!」
通話越しの声が弾んでいる。
周防凛は眉に笑みを宿した。
「今?」
「今、今! 一秒も待ちたくない。もう秘書に契約書作らせた。条件は好きに言って」
周防凛は「分かった」とだけ返し、西原グループ近くのカフェで会う約束を取り付けた。
正午。
カフェで向かい合った平岡貴利は、本当に契約書を持参していた。協業の意思は揺るぎない。
「凛、やっぱりお前だよ。さらっと、とんでもないサプライズぶつけてくる!」
平岡は契約書を周防凛の前へすっと滑らせる。
「読んで。気に入らない条件があったら言ってくれ。ここで直す」
正直、平岡は思っていた。六年も第一線から離れていたら、時代についていけないかもしれないと。
だが違った。
六年前に切り札だった彼女は、六年後も――そのまま切り札だった。
天才は、いつだって天才だ。
周防凛は契約書にざっと目を走らせ、迷いなくペンを取り、さらさらと署名した。
あまりにも早い。
平岡が笑って茶化す。
「早っ。俺が出した条件、ちゃんと見た?」
周防凛は小さく微笑む。
「先輩のこと、信じてます」
署名を終え、契約書を閉じた周防凛は手を差し出した。
「先輩。これから、よろしくお願いします」
平岡はその手を握り、顔いっぱいに笑みを広げる。
「凛。平岡グループを代表して、歓迎するよ」
契約書をしまいながら、彼は続けた。
「お前の新プログラム、全体はまだプロトタイプだけど、完成度が異常に高い。致命的な不具合もほぼない。市場テストさえ通れば、そのまま世に出せる」
言葉の端々に、評価と賞賛が滲む。
「で、いつから来られる?」
そのタイミングで、店員が熱いコーヒーを運んできた。
周防凛はスプーンで静かにかき混ぜる。
「もう退職手続きに入ってます。引き継ぎが終わったら、そちらへ」
平岡はなおも念を押した。
「本当に決めたのか?」
周防凛は頷く。
「もちろん」
平岡は大きく息を吐く。
「西原司と揉めて、勢いでうちに来るとかだったら困るからな」
そして契約書を持ち上げ、わざとらしく揺らす。
「周防凛。署名したからな。破ったら、西原グループに乗り込んで騒ぐぞ」
周防凛はくすっと笑い、コーヒーを一口含んだ。
「安心してください。違約金なんて、払えませんし」
平岡は、ここ数年の彼女の変化をぼんやりと感じ取っていた。
自分は、周防凛と西原司が隠して結婚していることを知る数少ない一人だ。夫婦仲が良くないことも。西原司が普段から冷淡で、周防凛だけが狂おしいほど彼を愛していたことも。
だからこそ、訊かずにはいられなかった。
「凛……お前、西原司とは、今どうなってる?」
周防凛のスプーンが、かつんと止まる。
彼女は顔を上げた。眉目には、諦めではなく――手放したあとの静けさがあった。
「私と西原司は……離婚するの」
