第5章

離婚と聞いた瞬間、平岡貴利は慌てて「すみません」と謝った。

周防凛は笑って首を横に振り、自嘲気味に言う。

「愛情のない結婚なんて、最初から形だけだもの」

平岡貴利はそれでも、いくつも慰めの言葉を重ねてくれた。

けれど周防凛は離婚の話をこれ以上したくなくて、話題を新しいプログラム開発へとすり替える。

そこからは不思議なくらい話が弾み、気づけば2時間以上が過ぎていた。

平岡グループに会議がなければ、まだ何時間でも話していられたはずだ。

周防凛と平岡貴利は連れ立ってカフェを出る。

別れて歩き出した矢先、道路の向こうのアパレル店から、ひとりの女がつかつかとこちらへ向かってきた。

西原七海。

西原司の実妹で、傍若無人な小姑だ。

「周防凛。今のって平岡貴利よね? どうしてあんたが知り合いなの?」

顎を上げ、見下ろすような口調。

平岡貴利はテック業界の新星で、平岡グループを一代で立ち上げ、わずか数年で世界500に名を連ねるまで押し上げた男だ。資金調達額も桁違い。

先月の京大の校庆で、西原七海は「優秀な卒業生」として招かれ、そこで一度だけ平岡貴利を見かけたことがある。

投資に興味がある彼女は、何重にもツテを辿ってもなお、平岡貴利に直接つながれなかった。

周防凛は表情一つ変えず、冷えた視線を投げる。

「案件の話」

「平岡様と、あんたが?」西原七海は鼻で笑う。「西原グループの案件ってこと?」

返事を待つ間もなく、嘲りは加速する。

「……違うわね。だって、うちの兄が重要な案件をあんたに任せるわけないじゃない」

「何ができるのよ。お茶くみと書類運びのしょぼい秘書。会社の下の警備員のほうがよっぽど役に立つわ」

「で? 結局、平岡貴利と何を話してたの?」

西原七海は周防凛の目の前に立ちはだかり、威圧するように肩を張った。

さっき店で試着していた時、ガラス越しに見えたのだ。周防凛と平岡貴利が、驚くほど楽しげに話し込んでいるところが。

周防凛は挑発にも乗らず、淡々と言い捨てる。

「あなたには関係ない」

そう言って横をすり抜け、歩き出そうとした。

「周防凛」

背後から呼び止める声。

「来週の月曜、花子の誕生日でしょ。ケーキ、ちゃんと作って」

「クラスの子を家に呼んでパーティーするの。30人くらい」

「恥かかないように、見栄えよく。分かった?」

命令。まるで使用人に指示を出すみたいに。

花子は西原七海の娘だ。

西原七海は未婚で妊娠し、相手のクズ男に捨てられ、ひとりで産んだ。そのせいで彼女は西原家の笑いものになっている。

一族の誰もが彼女を持て余しているから、矛先は「言いやすい」周防凛へ向いた。

花子は周防凛の作るスイーツが好きで、西原七海はことあるごとに花子を周防凛へ押しつけた。

その花子もまた母親そっくりで口が悪い。小さなケーキを頬張りながら、周防凛を召使いのように呼びつける。

――以前の周防凛なら、耐えた。

西原司を愛して、骨の髄まで惚れていて、西原家から浴びせられる冷たい視線も扱いも、黙って飲み込んできた。

だが今は違う。

夫婦関係はとっくに崩れている。これ以上、息を殺してまで取り繕う必要はない。

西原家の人間に、これ以上一秒たりとも時間を使う理由もない。

周防凛は振り返り、氷のような目で西原七海を見た。

「忙しいから。無理」

西原七海は指を突きつけるようにして言う。

「秘書なんて、コーヒー淹れて書類運ぶだけでしょ」

「西原グループは人材だらけ。仕事できる人なんていくらでもいるのに、あんたが何を忙しくするのよ?」

いつもなら、周防凛は断らなかった。頼まれたら、はい、はい、と。

西原司に気に入られたくて、夜中の3時に酔い覚ましのスープを作ったことだってある。

それを知っているからこそ、西原七海は苛立ちを隠さない。

「今、私が「機会」をあげてるの。周防凛、いい加減、調子に乗らないでよ」

周防凛は小さく笑った。喉の奥に苦味が広がる。

6年。

自分を捨てて、休まず回り続けるコマみたいに、西原家のためだけに動いてきた。

目も心も曇っていて、この家の恩知らずが見えなかった。

でも、もう見えている。

もう、呼ばれれば走る犬じゃない。

周防凛は皮肉っぽく口角を上げる。

「その「機会」、あなたが欲しい?」

「……周防凛、羽が生えたつもり?」

西原七海が怒鳴り散らそうとした、その時。

「西原さん」

見知った声に呼ばれ、彼女ははっとして振り向いた。

そこにいたのは、今まさに進めている案件の提携先の担当者たちだった。

西原七海は腹の底の怒りを飲み込み、作り笑いを貼りつける。

担当者たちは歩み寄りながら、なぜか周防凛に視線を一瞬だけ止めた。

西原七海は軽く説明する。

「うちの使用人です」

吐き捨てるように言って、担当者たちと一緒に去っていった。

周防凛はその場に立ち尽くし、西原七海の背中を見送る。

……笑える。

自分は西原司の法的な妻のはずなのに、西原家では「使用人」扱いだ。

以前なら胸が痛んだだろう。でも今は、どうでもいい。

その日の夜、21時半。

西原司は西原景冶を連れて帰宅した。

西原景冶は今日、美晴おばさんと遊園地へ行き、一日中遊び倒したらしい。疲れ切って、西原司に抱かれている。

家にいるのは執事と大村だけ。周防凛の姿はやはりなかった。

西原司は西原景冶を抱いたまま、二階の寝室へ向かう。

景冶は父親の肩に頬を寄せ、小さくこぼした。

「お母さん、もう半月以上、帰ってないよね」

帰ってこないだけじゃない。電話も一本もない。

胸の奥がざわつく。不安がじわじわと大きくなる。

西原司は答えなかった。

そもそも彼は、周防凛が家を空けている期間など気にしていなかったのだ。

息子に言われて初めて、確かに長いこと帰っていないと気づく。

景冶はふいに、お母さんが恋しくなった。

夜はいつも、お母さんが絵本を読んでくれた。抱きしめてくれた。

お母さんはいい匂いがした。美晴おばさんとは違う匂い。

景冶は小声で尋ねる。

「お父さん……会社の案件、まだ終わらないの?」

「もうすぐだ」

「そっか」

景冶はそれ以上聞かなかった。

会いたいのに、帰ってきてほしくない気持ちもある。

お母さんがいない半月は、正直、楽だった。小言も説教もない。

――美晴おばさんみたいに、優しくて、何でも許してくれたらいいのに。

寝かしつけたあと、西原司が階下に降りると、執事が向かいから歩いてきた。

「……まだ戻っていないのか」

執事は誰のことか分かっている。

「奥様は、お仕事が忙しいと」

周防凛が何日も帰らないので、執事は心配になり、何度も電話をして理由を確認していた。

「私からもう一度、お電話を差し上げましょうか」と執事が提案する。

西原司は眉をわずかに動かしただけで、表情は冷えたまま。

「いや、いい」

それだけ言い残し、彼は書斎へ上がって案件資料に目を落とした。

西原司は、周防凛の行方に興味がない。

昔からそうだし、今も変わらない。

前のチャプター
次のチャプター