第6章

週末、平岡貴利は周防凛を呼び出し、入社の件について話し合った。

一通り話を終えると、二人でそのまま朝食を取ることにする。

周防凛は窓際の席に腰を下ろした。

すぐ近く、片側に立つ店員が二人、ひそひそと声を潜めている。

「ねえ、B16の家族、眼福すぎない? パパもママも美男美女で、子どもまで顔面強すぎ」

「わかる。しかも旦那さん、品があって紳士でさ。奥さんのステーキ、わざわざ自分で切ってあげてた」

「そんなハイスペ優良物件、どこに落ちてるの……お願いだから私にも一人配給して……」

その言葉に、周防凛はB16のほうへ視線を流した。

――息が止まる。

次の瞬間、込み上げたのは笑えないほどの皮肉だった。

店員たちが褒めそやす「理想の旦那」。それが、西原司。

果物の盛り合わせが置かれたテーブルで、西原司は落ち着いた手つきで葉山美晴のステーキを切り分けている。葉山美晴は葉山美晴で、「良き妻」役に徹し、やわらかな声で西原景冶にフルーツジュースを飲ませていた。

――見事なまでに、仲睦まじい三人家族。

けれど。

西原司の「正式な妻」は、周防凛だ。

周防凛は改めて思い知らされる。この家の中で、部外者は自分だけなのだと。

さらに腹立たしいのは、あれほどわがままな息子が、葉山美晴の前では聞き分けのいい「いい子」になっていることだった。

平岡貴利は凛の顔色の変化に気づき、視線の先を追って、遠くの西原司を見つける。

「凛ちゃん……店、変える?」平岡貴利が気遣うように尋ねた。

周防凛は首を横に振る。

「ううん。ここでいい」

視線をメニューに戻し、前菜とステーキを適当に選ぶ。

平岡貴利の表情が複雑なのを見て、凛は口元だけで笑った。

「先輩、心配しないで。もう離婚するんだし、今さら気にしてない」

平岡貴利は頷く。

「早く離れたほうがいい。西原は、凛ちゃんに見合う男じゃない」

食事を終えると、西原司と葉山美晴は左右から西原景冶の手を引き、店を出ていった。

周防凛と平岡貴利も少し遅れて外へ出る。

いつの間にか、霧のような細い雨が降っていた。

少し離れたところで、葉山美晴は西原景冶を抱き上げ、西原司は片手で傘を差しながら、葉山美晴を半ば抱き込むように寄せて歩いている。

黒い傘は完全に葉山美晴側へ傾き、細かな雨粒が針のように西原司の肩を少しずつ濡らしていく。

周防凛は唇を引き上げ、苦い笑みを浮かべた。

離婚を決めたはずなのに。

西原司は、彼女が十年も盲目的に愛してしまった男だ。情けないほど胸の奥が酸っぱくなる。

    ◇

翌日、周防凛は時間どおり出社し、新任秘書の雨村に引き継ぎを進めた。

エレベーターへ急ぐ途中、西原司と葉山美晴に鉢合わせる。

「すみません、待ってください」

周防凛が駆け寄ると、閉まりかけた扉が内側から押し戻された。

中の人物を見た瞬間、凛の作り笑いが固まる。

――西原司と葉山美晴。

しかも葉山美晴は、親しげに西原司の腕へ手を絡めている。

二人も凛と出くわすとは思っていなかったのだろう。葉山美晴が一瞬だけ戸惑い、か細く呼んだ。

「……司」

西原司は冷えた顔のまま、周防凛の存在など最初からなかったかのように、無言で「閉」ボタンを押す。

周防凛は廊下に取り残され、扉が閉まっていくのをただ見ていた。

西原司の傲慢で無表情な横顔が、ゆっくりと遮られて消える。

周防凛は深く息を吸い込み、喉元の苦さを押し込めたまま、ふらつく足取りで秘書室へ戻る。

室内は妙に騒がしかった。誰もが噂話に夢中になっている。

新任秘書の雨村が、興奮気味に凛の腕を引く。

「凛さん、見ました? 西原様の彼女! すっごく品があって綺麗で……だから西原様っていつも淡々としてるのかと思ったら、裏であんな可愛い人を隠してたんですね……私、西原様のこと密かに好きだったのに。話しかける前に失恋しました、つらい……」

凛は薄く笑っただけで、答えない。

そこへ大村静也が口を挟んだ。

「葉山さんは海外の名門大を出た博士課程の人だ。ずっと国外で研鑽を積んで、最近帰国したばかりらしい。みんな、失礼のないようにね。未来の社長奥様だ」

秘書室の面々は、こぞって同調する。

周防凛が何も言えずにいると、廊下側から甘ったるい媚び声が聞こえてきた。

目を向けると、会社の幹部数名が葉山美晴を囲み、家柄だの学歴だの容姿だのを持ち上げている。

葉山美晴は、まるでスポットライトの中心にいるかのように、落ち着いた笑みで受け答えをしていた。

その横で、西原司が葉山美晴だけを見つめている。集中した、熱のある目。

周防凛は人の波の中に立ったまま、名もない端役のように、主役の葉山美晴を眺めていた。

もう考えるのはやめた。

席に戻り、整理した業務内容を淡々と雨村へ引き渡していく。

――この西原グループに、これ以上一秒たりとも居座りたくない。

    ◇

午後、大村静也が周防凛に命じた。

「総裁室へ、ホットコーヒーを」

毎日15時半。西原司は必ずコーヒーを飲む。

周防凛は彼のためだけに、淹れ方まで習った。西原司も気に入って、いつの間にかそれが当たり前になっていた。

けれど――。

「大村さん。今日は引き継ぎが終わりました。もう退職で構いません」

周防凛はきっぱり断る。

西原司とは、もう一切関わりたくない。しかも今、葉山美晴が総裁室にいて、同席しているのだ。

だが大村静也は面倒くさそうに眉を動かす。

「人事の正式通知は今日だろ。まだ就業時間中だ。君は現時点で西原グループの社員だよ」

言い返せない。

雨村を探そうとしても、雨村は外出中だった。

周防凛は奥歯を噛み、休憩スペースで熱いコーヒーを一杯淹れた。

トレイに載せ、総裁室へ向かう。

ノックしようと手を上げた、そのとき。

扉はきちんと閉まっていなかった。指先で押すだけで、すっと開く。

周防凛は中へ入らず、隙間から視線を滑らせた。

――見えた。

葉山美晴が、西原司の膝の上に座っている。

西原司の太腿に跨るように身を預け、首へ腕を回し、潤んだ目で見上げながら甘えるように顔を寄せていた。

西原司は葉山美晴の腰を抱き、逃がさないように腕の中へ閉じ込める。目元には、隠しきれない熱。

角度も距離も、息遣いも。

二人は今まさに、唇が重なる寸前だった。

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