第7章

「周防凛、誰が入っていいと言った!」西原司は周防凛の姿を認めた瞬間、顔を真っ赤にして怒鳴った。「出ていけ!」

葉山美晴は羞恥に耐えきれないように顔を西原司の胸元へ埋め、縋るように身を寄せる。

西原司は彼女を庇うように腕の中へ抱え込み、氷みたいな視線を周防凛へ投げた。見られているだけで頭皮がぞわりと粟立つ。

「……すみません」

そう絞り出して、周防凛は「バタン」とドアを閉めた。

閉め方が慌ただしかったせいで、手にしていた熱いコーヒーがはね、手の甲にかかる。じわりと赤く腫れて、ひりひり痛んだ。

周防凛は足早に休憩室へ戻り、コーヒーをゴミ箱に捨てる。

洗面台の蛇口をひねり、冷水で赤くなった手の甲を流した。表情は麻痺したみたいに動かない。ただ、目の縁だけがうっすら赤い。

胸の奥を、鋭い刃でえぐられたような痛み。

休憩室で氷入りの炭酸を三杯飲んで、ようやく少しだけ意識が現実へ戻ってきた。

秘書室へ戻ると、真正面から大村静也にぶつかりそうになる。

大村静也は苛立ちを隠そうともしなかった。たった今、社長室へ書類を届けに行ったのだ。

西原司は怒りの最中で、運の悪い大村静也がちょうどその矛先を食らった。散々な目に遭った――そして、原因は周防凛だと決めつけている。

折よく、秘書室には他に誰もいない。

大村静也は周防凛を見るなり噛みついた。

「コーヒー一杯で西原様を不機嫌にさせるとか、どれだけ使えねぇんだよ。周防凛、お前みたいな役立たずを会社が置く意味ある? 前の西原社長が首を縦に振らなきゃ、お前が西原グループに入れたと思ってんの?」

そうだ。彼女が西原グループに入れたのは、西原お爺さんの意向だった。

西原家の中で周防凛を好いていたのは、西原お爺さんだけ。

周防凛と西原司の隠し婚も、あの人がまとめ上げたものだ。

大村静也は、ごく普通のサラリーマンだ。必死で勉強して難関大学に入り、そのまま修士まで取り、競争を勝ち抜いて秘書の席を掴んだ。

だから許せない。

自分が血を吐く思いで手に入れた場所に、無能なコネ入社が同じ顔で座っていることが。

大村静也にとって、それは屈辱だった。

「秘書室の連中、全員名門出身だぞ。最低でも修士。なのにお前は学士止まり。学歴も能力も足りねぇくせに、コネだけ」

舌打ちするように言葉を重ねる。

「いったい何をどうしたら西原様に入籍させられるんだよ。結婚したところで意味ねぇだろ。西原様はお前なんか眼中にねぇ」

「俺から見りゃ、お前は葉山さんの靴でも――」

「ドン!」

周防凛が手にしていた書類を机へ叩きつけた。

大村静也が言葉を詰まらせる。普段なら百回罵っても、周防凛は黙って飲み込んでいたはずだ。

周防凛は冷えた顔のまま、声を張った。

「大村静也。私が何者か、私がふさわしいかどうか――あなたが口を出すことじゃない」

机を回り込み、一歩、また一歩と距離を詰める。

六年分の我慢が幾重にも積み重なって、限界はとうに超えていた。少し触れれば、今にも爆ぜる。

大村静也は彼女の鋭い視線に刺され、一瞬、声が出なくなる。

周防凛は目の前で足を止め、嘲るように口角を上げた。

「立派な人間なら、自分の兄嫁と関係を持ったりしないでしょ。兄さんのものを奪うの、兄さんは知ってるの? あなたの倫理と底は、まだ残ってる?」

その一言で、大村静也の顔から血の気が引いた。

周防凛が偶然、その秘密を見たことがある。

資料を置き忘れて深夜に取りに戻ったときだ。オフィスの暗がりで、大村静也と兄嫁が――。

周防凛は黙っていた。わざわざ人を貶めたくなかったから。

だが、大村静也が踏み越えた。

「お、お前……!」大村静也は喉に何かが詰まったように言葉を探し、「でたらめ言うなよ、周防凛……!」と弱々しく吐き捨てる。

周防凛の目は刃の光を帯びていて、大村静也は背中に針を突き立てられたみたいに身がすくんだ。

「でたらめかどうか、あなたが一番分かってる」

「名門大の修士? それが何。裏でやってることは、結局、ドブの鼠よ」

周防凛は言い切る。

「大村静也。あなたは私を見下すけど、私だってあなたを見上げたことなんて一度もない。職場の人間関係をぐちゃぐちゃにしたくないから黙ってただけ」

「でも、面子をくれてやっても噛みつくなら――社内掲示板に、あなたの「事情」を出してあげてもいい」

言葉は淡々としているのに、芯が冷たい。逃げ道を塞ぐような、正確な一撃。

大村静也は真っ白になり、膝の力が抜けて、椅子へどさりと沈んだ。

声が出ない。

弱みを握られるのは、縄で喉を絞められるのと同じだ。息ができなくなる。

西原グループの秘書職は年収300万。失いたくないものの重さは、彼自身が一番よく知っている。

周防凛は、すっかり勢いを失った大村静也を見下ろした。

「大村助手。私たちの「同僚」は、ここまで」

そう言い残し、机の上のバッグを掴むと、周防凛は迷いなく部屋を出た。

西原グループのビルを出て、周防凛は道の向こう側で立ち止まり、見上げる。

六年間、自分を閉じ込めてきた商業ビル。

街の中心にそびえ立ち、威圧するように空を突く姿は、獲物を睨む雄獅子のようだった。

周防凛は深く息を吸い、低く呟く。

「さよなら、西原グループ」

「さよなら、西原司」

言い終えると踵を返し、大股で歩き出す。二度と振り返らない。

車に乗り込むと、周防凛は平岡貴利へ電話をかけ、引き継ぎは完了したこと、いつでも入社できることを伝えた。

平岡貴利は待ってましたと言わんばかりに言う。

一週間後、出社してほしい。

周防凛は即答で承諾した。

電話を切ってから、周防凛は車を走らせ、周防実家へ向かった。

周防家は名の知れた名家だった。だが時代の流れに乗れず、近年の不況の波も直撃し、周防グループは傾いている。

赤字が続いているとは聞いていた。けれど、ここまで深刻だとは知らなかった。

家に戻ると、母とおじさんが資金繰りのことで頭を抱えていた。

おじさんの周防寒也は周防グループのCEOで、母――周防若葉に助けを求めに来ている。

「お姉さん、プロジェクトが前に進まない。資金も大半が現場に入って、動かせない。このままだと資金が回らなくなる。正直、長くは持たないと思う」

周防寒也は疲れ切った顔で言った。

周防若葉も打つ手がない。それでも、自分名義の不動産を抵当に入れた。

手元の小切手を周防寒也の手へ押し込む。

「寒也、お姉さんは会社のことは何も分からないの。役に立てないけど……これだけは。気持ちよ」

それが、彼女の全財産だった。

「お姉さん……」周防寒也の目に涙が滲む。「俺……」

周防凛は黙ってそれを見ていた。

無力感が、骨にまで沁みてくる。

今の自分には、周防家に何ひとつ返せない。

六年も無駄にして、たった一人の男の周りを回って――笑えるほど馬鹿だった。

周防寒也は濡れた目尻を指で拭い、縋るような視線を周防凛へ向けた。

「凛ちゃん。最近、西原グループがRTUプロジェクトで協力会社を募ってる。うちも手を挙げたい。でも競合が多すぎるんだ」

一瞬、言葉を選ぶ間。

「……西原家とは、姻戚だろ。頼む。お前が一度、顔を出して繋いでくれないか。西原グループに、話を通してほしい」

周防凛は、周防寒也の人柄を知っている。

追い詰められなければ、こんなふうに頭を下げたりはしない。

それでも――西原司に頼めと言われても。

周防凛は答えを見つけられず、唇を噛んだまま黙り込んだ。

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