第8章
その夜、周防凛はマンションに戻ってからも、寝返りばかり打って眠れなかった。
脳裏に焼きついて離れないのは、あの人――周防家の「おじさん」が、期待と懇願を滲ませてこちらを見た目。
周防グループは深刻な資金難に追い込まれている。商界の頂点に立つ西原グループが手を差し伸べてくれさえすれば、周防グループは窮地から一気に立て直せるはずだ。
もし自分がRTUプロジェクトの提携を口にしたら、西原司は応じてくれるのだろうか。
――西原司。商界の「冷たい閻魔」。
情けも身贔屓もなく、すべてを実力と利益で裁く男。
その時計の針が、23時半を指した。
周防凛は結局、彼に電話をかけた。
一回目。ぷつりと切られる。
二回目。また、切られる。
三回目でようやく繋がった。
出たのは西原景冶だった。
「お母さん? お父さんに何か用?」
久しぶりに聞く息子の声に、胸がきゅっと柔らかくなる。
どれだけ冷たく装っても、西原景冶は十月十日、身を削って産んだ子だ。感情がないはずがない。
「景冶、こんな時間まで起きてるの? もう遅いよ」
「今日、遊園地行ったんだ。帰りが遅くなって」
「楽しかった?」
誰と行ったのかは聞かなかった。いつものことだ。西原司と葉山美晴が並んで、景冶を連れていく。
「めちゃくちゃ楽しかった! また行きたい!」
周防凛は小さく笑って、話題を変える。
「お父さんは?」
西原景冶は、なぜか隠すという発想が抜け落ちたみたいに、すっと言った。
「今日ね、美晴おばさんが間違ってナッツ食べちゃって、ちょっとアレルギー出たんだ。お父さん、いま看病してる」
言い終えた瞬間、通話の向こうもこちらも、短い沈黙に沈んだ。
周防凛はスマホを握る手に力がこもる。手の甲に薄い青筋が浮くほどに。
景冶も空気を察したのか、慌てて尋ねてくる。
「お母さん、いつ帰ってくるの?」
帰る、か。
あそこはもう、周防凛の家じゃない。
離婚協議書には、景冶の親権を放棄することも書いた。……面会の権利さえ、争わなかった。
西原景冶は「お母さんがまた不機嫌になった」と思ったのだろう。甘えるように声を弾ませる。
「お母さん、景冶、ずっと会ってない。お母さんがいないと、夜、寝るとき誰もなだめてくれないし……お話、読んでほしい」
お母さんの腕の中は、いい匂いがする。抱きしめてもらうと、安心して眠れる。
周防凛の心はまた少しだけほどけた。
「景冶。お母さん、用事が片づいたら会いに行くね」
「帰る」とは言わない。
「うん! 待ってる!」
景冶は嬉しそうに返してから、遠慮がちに続けた。
「お母さん、お父さんに何の用だったの? 呼んでこようか?」
葉山美晴の看病で手が離せない西原司の姿が浮かび、周防凛は即座に断る。
「いいの。呼ばなくて。……それから、私が電話したこと、お父さんに言わないでね」
「わかった」
「子どもは早く寝なきゃ」周防凛は声を落とす。「景冶、おやすみ」
「おやすみ」
通話はそこで切れた。
周防凛は、結局一睡もできなかった。
◇
翌朝、周防凛は西原グループを訪ねた。
けれど運悪く、今日は西原司が不在だった。
雨村が周防凛を引っぱって、小声で噂話を始める。
「大村助手から聞いたんですけど、西原様の彼女が体調崩したらしくて」
「アレルギーがけっこうひどかったみたいで、西原様、一晩中つきっきりで看病したんですって」
「詳しくは分からないけど、今週の予定ぜんぶ組み替えたらしいですよ」
「葉山さん、幸せすぎません? 西原様、ほんとに彼女のこと大事にしてて……絶対いい男ですよね」
周防凛は西原司の私生活に、口を挟む気はなかった。
西原司に会えないなら、と昨夜の景冶の「会いたい」が胸をよぎる。
周防凛は授業の終わりの時間に合わせて、幼稚園へ迎えに行った。
景冶は仲のいい友だちと一緒に出てくる。
周防凛を知らないらしいその子が、にこにこしながら景冶に言った。
「景冶、このおばさん、すっごくきれい! 景冶のお母さんと同じくらいきれい!」
先生の笑みが一瞬ひきつった。すぐさま訂正する。
「知也くん、この方が景冶くんのお母さんよ」
知也は目を丸くする。
「え? この前、子どもの日? だっけ、景冶と来てたきれいなおばさんがお母さんじゃないの? じゃああの人だれ? 景冶、お母さんが二人いるの? 二人ともきれい! ぼくもきれいなお母さん二人ほしい!」
先生は慌ててポケットから飴を取り出し、知也に渡して気を逸らした。
周防凛はその場に立ち尽くしたまま、子どもの無邪気さに胸の奥が苦く満たされていく。
「二人のお母さん」――その片方が葉山美晴なのは、分かりきっていた。
先生が気まずそうに頭を下げる。
「西原奥様、申し訳ありません……」
周防凛は淡く言った。
「大丈夫です」
彼女はしゃがみ、景冶のリュックの肩紐を整えてやる。丁寧に、いつもよりずっと丁寧に。
そして手を繋ぎ、幼稚園を出た。
帰り道、景冶はアイスをねだり、周防凛は買った。
次はポップコーン。周防凛はそれも買った。
チャイルドシートに座った景冶が、じっと周防凛を見つめる。
「……どうしてそんなに見てるの?」
景冶はポップコーンを頬張りながら言う。
「お母さん、変わった」
周防凛は口元をゆるめた。
「そう?」
「うん。前のお母さん、アイスもポップコーンもダメって言った。あれもダメ、これもダメって」
周防凛はバックミラー越しに息子を見て、少しだけ寂しげに答える。
「……もう言わないよ。これからは」
自分には親権がない。
離婚したら、この子と会える回数は指で数えるほどになるだろう。
だからせめて、一緒にいられる時間だけは、景冶の記憶を甘くしてやりたかった。
母子は西原家へ戻った。
西原司はいない。たぶん――また葉山美晴のところだ。
周防凛は自分で台所に立ち、景冶の好きなものをいくつも作った。
夕食のあとも一緒に遊び、風呂に入れて、寝かしつけてやる。
夜10時。
リビングから物音がした。西原司が帰ってきたのだろう。
周防凛はRTUプロジェクトのことが頭から離れなかった。夫婦だったのだ。さすがに、情がゼロということはないはず――そう思いたかった。
階段の手前まで来たとき、下から会話が聞こえた。
「お義兄さん、本当にありがとうございます」
周防凛は、その場で固まった。
お義兄さん?
自分に弟も妹もいない。
この声は、葉山美晴の弟――葉山憲之介だ。
「お義兄さんの後押しがなかったら、葉山グループがRTUを取るなんて、あんなにスムーズにはいきませんでした」
周防凛は視線を落とす。苦さが、隠しきれない。
……RTUは、葉山グループに渡ったのだ。
西原司の声は、驚くほど穏やかだった。
「憲之介。身内なんだから、そんなにかしこまらなくていい」
その言葉で、周防凛の胸にぶら下がっていた最後の糸が、ぷつりと切れた。
皮肉な話だ。
「大公無私」のはずの西原司は、葉山美晴のために葉山グループへ手を貸した。
――愛する相手の身内まで大事にする。それが、彼の愛なのだろう。
