第9章
葉山憲之介が帰ったあと、西原司はようやく二階へ上がった。
廊下で鉢合わせたのは周防凛だった。
昔なら、凛はにこやかに迎えて、柔らかく「司」と呼んだはずだ。けれど今の凛は、冷めた顔でぷいと視線をそらす。
足早に近づいてきて、そのまま無表情にすれ違った。
きちんと身なりを整えた姿に、司の足がわずかに止まる。
――こんな夜更けに、どこへ行く気だ?
凛はしばらく家に戻っていなかった。せっかく帰ってきたと思ったのに、また出ていく。その不自然さが、胸の奥に小さな棘みたいに残る。
呼び止めようとして、司は結局ためらった。
凛がどこへ行こうと、俺に関係あるのか。
司は子ども部屋へ向かい、眠っている西原景冶を見下ろした。
景冶は恐竜の子ども用枕を抱きしめ、すぅすぅと気持ちよさそうに眠っている。ときおり、寝言が漏れた。
「……お母さん」
司の表情が、ほんのわずか揺れる。
黙ったまま身をかがめ、布団をそっと掛け直してやった。電気を消し、静かに部屋を出る。
主寝室へ戻ると、室内はがらんとしていた。
いつもなら、淡い梔子の香りがふわりと漂う。凛が好んで使っていた香水の匂いだ。
だが今は、それがない。
凛の持ち物は多すぎも少なすぎもせず、整然と置かれている。物は全部そこにあるのに、肝心の本人だけが戻ってこない。
司が感じたのは、怒りでも焦りでもない。ほんの少しの、居心地の悪さ――そんな程度だ。
そのとき、スマホが鳴った。
司が通話を取る。
葉山美晴からの着信だった。その瞬間、凛がいないことへのわずかな違和感は、霧みたいに消え去った。
◇
さらに三日が過ぎた。
周防凛のスマホに、西原司から電話が入った。
画面に表示された名前を見て、凛は一瞬ぼうっとする。
何年も一緒にいて、司のほうからかけてくることなど数えるほどしかなかった。
出ないつもりだった。――それでも、結局は心が折れる。
「……もしもし」
司の声は相変わらず淡々としている。
「明日の夜、家で家族の食事会がある。祖父が、俺たち三人で実家に来いと言ってる」
三人――家族。
その言葉が司の口から出るだけで、凛には皮肉にしか聞こえなかった。
断る言葉が喉まで出かかった。離婚するのだと突きつけてやりたくもなる。けれど、ふと踏みとどまる。
西原家で、凛を本気で大事にしてくれたのは祖父だけだった。
「時間通りに行きます」
祖父の顔に泥を塗りたくなくて、凛はそう答えた。
離婚したら、祖父と会える機会はもっと減る。凛にも、未練はあるのだ。
電話を切ろうとした、そのとき。
受話口の向こうから、景冶の弾んだ声が飛び込んできた。
「お父さん、明日、美晴おばさんと乗馬に行くなら、ぼくどの服がいい?」
司が珍しく優しい声で返す。
「景冶、明日は乗馬はなしだ。実家で夕飯だ」
「えぇ……帰って食べるのイヤ。美晴おばさんと食べたい」
凛の唇に、冷たい笑みが浮かぶ。
そして、何も言わずに通話を切った。
◇
翌日の夕方、凛は平岡グループへ足を運んだ。
数日後には入社する。職場の空気を先に掴んでおきたかった。
会社を出たあと、約束通り車で西原の実家へ向かう。
――だが、天気は最悪だった。土砂降りの雨で道路は渋滞し、到着した頃には西原家の面々はすでに揃っていた。
遠目にも、西原お婆さんと西原七海の、あの露骨に嫌そうな口元が見える。
お婆さんはもともと凛を気に入っていない。そこへ七海が何度も火をくべてきたせいで、偏見は年々こじれていった。
凛は二人を無視し、まっすぐ祖父のところへ向かう。孫たちに囲まれている祖父のほうへ。
「家の食事会に遅れてくるなんて。立派なご身分ね」
七海が、凛の「儚げ清純」な顔立ちが気に食わないとでも言うように、刺々しく投げた。
凛は感情のない声で返す。
「渋滞よ」
お婆さんも容赦がない。
「渋滞になると分かっているなら、早く出ればいいでしょう」
七海がすかさず追い打ちをかける。
「どうせまた『仕事が忙しくて』とか言うつもり? 平凡な学部卒で、コネで西原グループに入れてもらったくせに、何が忙しいのよ」
針みたいな言葉が、耳を刺す。
凛は口元だけで笑って、七海を正面から刺し返した。
「私がどれだけ冴えなくても、口だけ達者で、家の金を吸い続ける寄生虫よりはマシよ」
七海の顔が、さっと青くなって、次いで赤くなる。
「周防凛! あんた――!」
詰め寄って平手でも飛ばしそうな勢いだった、その瞬間。
年老いた低い声が場を割った。
「凛ちゃん? こっち、こっち。じいちゃんの隣へおいで」
西原お爺さんは皺だらけの顔でにこにこ笑い、優しく手招きする。
七海はそれ以上騒げず、怒りを飲み込んだ。
凛は人の輪を抜け、祖父のもとへ歩いた。
祖父は凛の手を取り、隣に寄せて親しげに話しかける。
「凛ちゃん、最近どうだい?」
「元気です。変わりありません」
「司のあのガキ、いじめたりしてないか?」
凛は機械みたいに首を横に振った。
「大丈夫です」
◇
ほどなくして、食事会が始まった。
凛と司は並んで座り、その間に景冶が挟まる形になる。
席の間、二人の会話は一切ない。
司が寡黙で凛に冷たいのは、皆も見慣れている。だが今日、違うのは凛のほうだった。
食事が始まっても、凛は以前みたいに全員に取り分けたり、気を配ったりしない。
これまでは皆の世話を終えてから、ようやく自分が箸を取るのが常だった。
それが今日は、席に着くなり自分の分だけをゆっくり食べる。誰一人、相手にしない。
そんな中で景冶が駄々をこねた。
「お母さん、カニ食べたい」
期待で輝く目を向けられ、凛は溜息を飲み込む。
「分かった。お母さんが剥いてあげる」
大きめの蟹を取り、専用の鋏を手にする。ぱちん、ぱちんと殻を割り、身を崩さないよう丁寧に外していく。
祖父の視線がふと凛の手元に落ちた。
「凛ちゃん、結婚指輪はどうした?」
その一言で、席の空気が変わる。
全員の視線が集まり、凛は一瞬で注目の的になった。
反射的に司の手を見ると――司は指輪をしている。
普段は「秘密の結婚」みたいにして、まず着けない男だ。実家に来るときだけ、祖父の機嫌を取るために渋々はめる。
凛は鋏を動かす手を止めず、目元だけ柔らかく笑って、平然を装った。
「出るのが慌ただしくて。家に置いてきちゃいました」
――本当は、指輪も離婚届も、まとめて司に渡してある。
祖父はにこりとし、それ以上は追及しなかった。
司の視線が斜めに流れ、凛の指先へ落ちる。
その瞳が、じわりと暗く深くなる。
周防凛が結婚指輪をしていないことを、司はそのとき初めてはっきり認識したのだった。
