第3章

「早森様がいらっしゃったぞ!」

 猪鼻の震えた声が、居間に漂う重苦しい沈黙を打ち破った。ほんの数秒前まで私に悪毒な罵詈雑言を浴びせていた家族たちは、顔に張り付いていた陰湿な色を瞬時に拭い去り、恐悦至極といった顔つきの媚びへつらいへと見事に切り替えた。

 重く鋭い足音が近づいてくる。早森家の若き当主であり、私の婚約者でもある秀生が、散らかった床を踏み越え、この虚飾に満ちた領域へと足を踏み入れた。世間から恐れられる財閥の暴君である彼は、石黒家が地に這いつくばってでもすがりつきたい絶対神なのだ。

 彼の手には豪奢なギフトボックスが握られている。両親が愛想笑いを浮かべて出迎えるより早く、ソファでか弱き乙女を演じていた好恵が、血の匂いを嗅ぎつけた鮫のごとく身を翻した。彼女はほんのりと目元を赤らめ、かつて私だけのものであったその胸に真っ直ぐ飛び込んでいく。

「秀生さん……」好恵は彼のシワひとつない高級スーツの胸元をきつく握りしめ、甘えるように顔を仰ぎ見た。

「お忙しいのに、会いに来てくれてありがとう。あなたを見たら、もう何も怖くなくなりました」

 宙に浮遊する私の魂は、その三文芝居をただ冷ややかに見下ろしていた。

 思いがけないことに、極度の潔癖症で他人に触れることを嫌悪してやまない秀生が、彼女を突き飛ばさなかったのだ。それどころか、骨張った長い指をゆっくりと持ち上げ、彼女の背中を軽くポンと叩いたではないか。

言葉では言い表せない違和感が、鋭利な爪と化して私の心臓を無残に握り潰した。

 秀生は私の婚約者であり、この世で唯一、魂の底から通じ合える半身だったはずだ。かつて深い闇の中で私と肩を並べ、共に敵を屠ったあの鋭い双眸すらも、好恵が被る清純という名の薄皮に欺かれてしまったというのか。

 好恵が己の魅力を存分に見せつける前に、秀生は唐突に口を開いた。

 底知れぬ漆黒の瞳で部屋全体を睥睨し、有無を言わさぬ威圧感を放つ。

「綾花の姿が見えないが? ここ数日、あいつと連絡がつかない」

 私の名が出た途端、母である朋美の上品に繕われた顔が醜く歪み、目尻に骨の髄まで染み込んだ嫌悪を浮かび上がらせた。

「あんな薄情なろくでなしのことは言わないでちょうだい! どの面下げてあなた様に会えるというの」

「あの子の嫉妬深さといったら、本当にどうしようもないわ。なんと街のチンピラを雇って、好恵を無理やり手籠めにさせようとしたのよ! 今頃は悪事がばれて恐れをなし、どこか悪臭の漂うドブにでも隠れているんでしょうね!」朋美は憎々しげに吐き捨てる。

「あんな疫病神がいなくなって、この家の空気もすっかり綺麗になったわ」

 このあまりにも荒唐無稽な告発に対し、秀生の瞳の奥がほんの一瞬だけ暗く濁った。彼は親指にはめた黒金のサムリングをゆっくりと回しながら、薄い唇に喜怒の読めない弧を描いた。

「そうか。それは確かに度が過ぎている。戻ってこないなら好都合だ、好恵の休息の妨げにもならない」

 その一言は強心剤のごとく、実の兄である颯斗を瞬時に狂喜乱舞させた。

 彼は血相を変えて前へ進み出る。

「秀生さん! あのクズの正体を分かっていただけたのなら、いつ正式に婚約を破棄してくださるんですか! あんな悪辣なゴミ女、早森家の敷居を跨ぐ資格なんてありませんよ」

 颯斗は好恵の腕を引いて前へ押し出し、虫酸の走るような下劣な魂胆を剝き出しにした。

「好恵は血こそ繋がっていませんが、二十三年もこの家で生きてきたんです。あの貧乏臭い小娘はたったの十七年! あなたが好恵を娶ってくだされば、両親も心から喜びます」

宙を漂う私の魂は、まるで氷の牢獄に突き落とされたように冷え切り、あまりの滑稽さに胃の腑がひっくり返るような酸鼻を味わっていた。

 私が六歳までスラムで苦汁を舐めていたから? 出遅れたからというだけの理由で? 実の兄がそんな厚顔無恥な詭弁で私のすべてを奪い取ろうとしている事実に、私は依然として生理的な吐き気を催していた。

 その後も、家族三人は我先にと手柄を立てるがごとく、口々に私のありもしない大罪を尾鰭をつけて並べ立てた。私を完膚なきまでに辱めの十字架に磔にしなければ気が済まないかのように。

 秀生は、その狂宴のような糾弾をただ静かに聞いていた。

 石黒家の当主である父から「あいつの脚をへし折ってやる」という言葉が飛び出した瞬間、秀生の全身から背筋が凍るほどのぞっとする冷気が爆発した。

「——まったく、腹立たしいにもほどがあるな」彼は冷たい笑い声を漏らす。その笑みは飢えた獣のように陰惨だった。「彼女がそこまでの凶行に及んだというのなら、この婚約、今日限りで俺の権限をもって破棄させてもらう」

 その場にいた全員が、ハッと息を呑んだ。好恵の瞳孔は見開かれ、狂わんばかりの歓喜が頭頂部を突き抜けんとしている。

「代わりに、好恵を妻に迎えよう」石黒家全土を沸騰させるその誓約を、秀生は一切の躊躇なく言い放った。

 そして、すらりとした指でスマートフォンを取り出すと、ひどく暴力的な手つきで画面をスワイプした。「……だが、迎える前にこの鬱憤は晴らしておく必要がある。今すぐ綾花に電話をかけよう。奴がどこに潜んでいようと、這いつくばってでも戻らせ、好恵の前に土下座して謝罪させてやる」

「その通りだ! あのクズを引きずり戻して土下座させてやりましょう」颯斗は興奮のあまりガッツポーズをした。

 好恵は勝ち誇った喜びに呼吸を震わせ、挑発的な視線を虚空へ漂わせた。まるで、私の最後の戦利品を完全にもぎ取ったとでも宣言するかのように。

 一方の私は、スマートフォンの画面を死んだように見つめ、ただ虚無に沈んでいた。

 私はすでに、闇医者のメスによって生きたまま解体されている。私の心臓からあふれた血の海に沈むあのスマートフォンは、とっくに私の副葬品と化しているのだ。誰が電話に出るというのか。

 スピーカー機能がオンにされている。間延びした無機質な呼び出し音が豪奢なリビングに響き渡り、全員の神経をじりじりと引き伸ばしていく。朋美が白目を剝き、私が死んだふりをしていると嘲笑しようとした、まさにその瞬間だった——

通話が、繋がったのだ。

 私は驚愕に透明な両目を見開き、魂そのものが激しく揺さぶられた。

 その刹那、好恵の口元に張り付いていた作り笑いが凍りつき、瞳の奥に抑えきれないパニックが弾けた。

「おい! 薄汚いクズがようやく口を開く気になったか? 今すぐ戻ってきて土下座しろと言ってるんだ、人間の言葉が理解できないのか!」颯斗がスピーカーに向かって怒鳴り散らす。

 だが、スピーカー越しに響いたのは、疲弊しきった私の押し殺したような服従の声ではなかった。

 ひどく冷淡で、事務的な響きを持った見知らぬ男の声だった。

『——こちらはL市警察の凶悪犯罪捜査課です。ご家族の方でしょうか?』

 男は少しの間を置き、万鈞の雷霆のごとき冷酷な宣告で、屋敷内の狂乱を粉々に打ち砕いた。

『十分前、我々は「Last Hope」の地下貯蔵室にて、このスマートフォンの持ち主のご遺体を発見しました。被害者は、主要な臓器をすべて違法に摘出されております』

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