第1章
私の夫、桜井隼は、私の兄さんだ。
もっとも、私たちに血の繋がりはない。
十五年前、私の母が桜井隼の元々完璧だった家庭に介入した。
母は鋭い刃物のようにその家をずたずたに切り裂き、桜井家の財産を巻き上げてから、姿を消した。
母は私を連れて行かなかった。
義父が再婚した後、私を児童養護施設に送ろうとしたが、桜井隼が私を引き留めた。
「彼女を送る必要はないよ」
彼は父さんに静かに言った。
「どうせ、ずっと同じ戸籍なんだから」
私たちはただの兄妹関係だと思っていた。
私が法定結婚年齢に達したその日、彼は私を連れて婚姻届を提出しに行った。
同じ時に、彼は大手芸能事務所と契約し、映画界で頭角を現した。
同級生と街を歩いていると、彼女が彼の巨大な広告を指して褒めそやした。
「桜井隼って、本当に格好良いよね!」
「芸能界でも、感情が安定していて、誰にでも優雅で丁寧だって評判だよ。怒ったことが一度もない、理想の仕事相手なんだって」
私は広告看板に写るその完璧な顔を黙って見つめ、何もコメントしなかった。
私たちの関係を知る者は誰もいない。
夜十時五分、私はマンションに帰宅した。
マンションの中は真っ暗だった。
「五分遅い」
桜井隼の声が暗闇の中から聞こえてきた。平坦で、それでいて氷のように冷たい。
「ごめんなさい、電車が遅れて」私は小声で説明した。
「誰と出かけてた?」
彼は立ち上がろうともせず、ソファに座ったまま、有無を言わせぬ詰問口調で続ける。
「学校の友達と」
桜井隼は立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきた。彼は私のスマホをひったくると、手慣れた様子でパスワードを入力して中身を改め始めた。
私は彼に近寄り、シャツの第一ボタンを外そうとする。
「やめろ」
彼は私を乱暴に突き放した。
「俺は変態じゃない。妹にこんなことはしない」
私は言った。
「でも、妹と結婚はするのね」
「お前と結婚したのが、愛してるとでも思ったか?」
桜井隼は鼻で笑った。
「お前も、お前の母親と同じで下衆で、取るに足らない存在だ。お前が愛されることなんてあるものか」
彼は私の手を振り払い、スマホを私に投げつけた。私は避けきれず、背後のコーヒーテーブルにぶつかった。
ガラスが音を立てて砕け、破片が私の腕を切り裂いた。
私はスマホを拾い上げた。
「俺から離れて、誰がお前を欲しがると思う?」
彼は私を見下ろした。
「お前は何者でもない」
私のスマホが不意に一度震え、画面が光った。私は素早くスマホを裏返し、画面を隠す。
「兄さん、機嫌を損ねないで。私、言うことを聞くから」
私はうつむき、従順に言った。
桜井隼の表情がふっと和らぎ、彼は屈み込むと、戸棚から救急箱を取り出し、丁寧に私の傷を手当てし始めた。
「これからは夜十時までに帰宅しろ。ミニスカートは禁止だ。他の男と接触するな」
彼の口調は優しくなり、まるで先ほどの激昂がなかったかのようだ。
「お前のためを思って言ってるんだ、アキ」
「泊まっていってくれる?兄さん」
私は彼に尋ねた。
彼は救急箱を片付け、立ち上がる。
「まだ仕事がある。泊まれない」
ドアが閉まった後、私はようやくスマホを見た。画面には、知らない番号からのLINEメッセージが一件。
私は深呼吸をして、返信した。
【彼、帰ったわ。上がってきていいよ】
——
兄さんは、私が重度の接触恐怖症を患っていることを知らない。
簡単に言えば、私は触れられることを渇望しているのに、接触を恐れている。発作が起きると、自分でも抑えきれずに取り乱して泣き叫び、一睡もできなくなるのだ。
精神科医は、幼少期の愛情欠如と関係があるかもしれないと言った。
私は兄さんに助けを求めることにした。私を引き留めてくれたのは彼だけで、私を愛してくれる唯一の人だったから。
「兄さん、眠れないの。一緒に寝てもいい?」
私は彼の部屋のドアの前に立ち、蚊の鳴くような声で言った。
桜井隼は顔を上げ、冷たい視線で私の顔を一瞥した。
「何を馬鹿なことを。二度とそんな考えは起こすな」
私が踵を返して去ろうとすると、彼が呼び止めるのが聞こえた。
「森川」
振り返ると、彼の口元には嘲るような笑みが浮かんでいた。
「お前に一度触れてやるだけで楽になるんだと?ずいぶんと安っぽいな。お前みたいな取るに足らない女に、誰が好き好んで触れてくれると思う?」
兄さんの言う通りだ。
母も、同じように私を罵ったことがある。
幼い頃、母に一度抱きしめてほしかっただけなのに、叔父さんとのデートの邪魔をしてしまったことがある。
彼女は陰で私を罵った。
「恥知らずな子。女としての慎みや礼儀も知らないの?どんな小細工を弄してるのよ!」
彼らは皆、私が愛されるに値しないと思っている。
どうしてだろう。
私は隣の席の同級生に尋ねた。
「倉持くん、もし私が倉持くんのことをすごくすごく大切に思っていたら、私を抱きしめてくれる?」
教室は一瞬で静まり返り、それからひそひそ話が始まった。
「森川が倉持に声かけるなんて」
「自分のこと、何様だと思ってんのかね」
「身の程知らず……」
倉持修は数秒真剣に考え、それから言った。
「今は、適切な時じゃない。ごめん」
私の質問に真面目に答えてくれた最初の人間だった。私は嬉しかった。
その後、倉持修は自身で脚本・監督を手がけた学生短編映画『夏の終章』で日本のインディーズ映画祭で注目を集め、続いて有名監督のスタジオでインターンシップの機会を得た。彼は京都を離れ、東京でキャリアをスタートさせた。
彼の前途は洋々としていて、まるで空の太陽のようだった。
太陽を嫌いな人なんているだろうか。だから私は、彼からほんの少しばかり影響を受けて、東京映画学院を受験した。
桜井隼はそれを知って、少し意外そうな顔をした。
「なぜその道を選んだ?」
だが、すぐに推測した。
「俺の背中を追いたくなったか?」
私は彼に嘘をついた。
「うん。兄さんの近くにいたいから」
彼は満足げに頷いた。まるで私の全ての秘密を掌握したかのように。
都合の良いことに、私も彼らの言うところの腹黒い女に成長していた。彼が私のことを全て理解した気になっている、その顔を見るのが好きだった。
