第5話
「どうしたの?」
藤崎杏奈にそう聞かれて、私は慌てて彼女の腕を離し、俯いてスマホの画面を覗き込んだ。
一目見た瞬間、頬の血の気がさっと引く。
『専業主婦が有名デザイナーに嫉妬?』
『白石紗月が実名で告発 美玲氏の盗作疑惑、その裏に隠された真相とは』
『抗がん治療中の天才デザイナー美玲、ライブ配信で騒動に言及!』
どれもSNSのおすすめとして、杏奈の画面に次々流れてきていた。
「紗月、こんなの見ちゃだめ。真相がはっきりすれば、みんな分かる。あなたと美玲、どっちが胸くそ悪い“悪魔”なのか」
私の視線に気づいた杏奈は、こほんと咳払いしてから数歩下がり、スマホをひったくるように取り上げて、適当にニュースのひとつを開いた。
すぐに、美玲の顔が私たちの前に映し出される。
『黒瀬様と私は、本当に清い関係です。黒瀬様が優しいのは……私の時間がもう長くないことをご存じで、同情してくださっているだけで……』
清楚なメイクの美玲は、目尻を濡らして、ぽろぽろと涙を落としていた。
『……はぁ。黒瀬蓮さんとは、結局ご縁がなかったんです。昔は仲が良かったのに、白石紗月が黒瀬蓮さんに薬を盛って、彼のベッドに……それで私たちは……』
『……もう、昔の話ですね。やめましょう』
『皆さん。今日配信したのは、ひとつだけ伝えたいことがあるからです。私のデザイン画は全部、私が自分で描いたものです。噂に惑わされないでください』
コメント欄は、慰めの言葉で埋め尽くされていく。
【白石紗月の写真見たけど、顔は綺麗なのに性格が終わってる】
【顔が良くても意味ない。今は才能の時代だろ。美玲はジュエリー作れるけど、あいつは?】
【才能で勝てないから、誣告で注目集めてるんでしょ】
【白石紗月、大学の時から人のもの取るの好きだったよ。今は男もデザインも奪うレベルになったか】
【誰か白石紗月の連絡先さらして。みんなで電話して罵倒しようぜ】
「……最低。ネットで個人情報ばらまくのは犯罪だよ。今すぐ弁護士に相談して訴えよう」
杏奈は私の隣で、配信のコメントを同じように見ていた。短気な彼女は、もう電話を取り出す勢いだった。
「やめとこう。美玲に騙されてる人が多すぎるし、こっちには一人ひとり訴える時間もお金もない」
私は杏奈の手を掴み、俯いたまま、かすれた笑いを落とした。
「それに、杏奈が言ったでしょ。運営が全部調べてくれたら、私を叩く声もそのうち消えるって」
「でも、言葉がひどすぎる」
杏奈が痛ましいものを見る目で私を見つめる。
「大丈夫。あの人たちはネットで喚いてるだけ。私の生活そのものは壊せない。最近はスマホ見ないようにする。ちょうどいい、ここ数日は美玲を告発する資料を整理しなきゃだし」
宥めるように、杏奈の手の甲を軽く叩いた。
「……分かった」
私の態度が揺るがないと分かり、杏奈は一旦、訴訟の話を引っ込めた。
——火消しをしていれば、そのうち風向きは収まる。
そう思っていた。
でも、現実は私の見積もりが甘いと突きつけてきた。
匿名の執念と、美玲の厚かましさは、想像以上だった。
その夜、私への攻撃は、ひっそりと一段階上がった。
大学時代の写真が誰かに掘り起こされ、私の顔は悪意の加工で「遺影」にされる。下品な噂まで捏造され、まるで事実のように拡散された。
それだけじゃない。
最悪だったのは、私の電話番号が晒されたことだ。
『ねえ妹、会える?』
『もうボロボロに遊ばれたって聞いたけど? 今夜、兄貴に付き合えよ』
『人の恋を壊す浮気相手が、なんでまだ生きてんの? さっさと死ねよ』
それから三、四日。電話やメッセージが途切れない。
スマホを手に取るたび、何百件もの罵詈雑言が増えていく。
私は、降り注ぐような悪意に擦り潰されそうだった。
杏奈がずっと側にいてくれても、夜は毎晩、悪夢を見る。
そんな時に——黒瀬蓮から電話がかかってきた。
「……もしもし」
黒瀬蓮の心が美玲にあることくらい、分かっている。
それでも、七年間の夫婦だった。
着信表示を見た瞬間、胸の奥に小さな期待が芽生えてしまった。
……慰めてくれるのかもしれない、と。
けれど通話が繋がった途端、返ってきたのは冷水だった。
「怖くなったか? 白石紗月。これ以上叩かれたくないなら、今すぐ運営への告発を取り下げろ。それから病院に行って、美玲に正式に謝罪しろ」
——何を言っているの?
私が攻撃されているのに、心配どころか謝れと言う。
……ああ、そういうことか。
ここ数日、私の悪評はトレンドから落ちない。
そこには、きっと彼の手も入っている。
美玲がどれだけ器用でも、所詮は新鋭のデザイナーだ。
こんな規模の炎上を単独で回せるはずがない。
できるのは、上場企業の社長である黒瀬蓮——そのくらいの力を持つ人間だけ。
スマホを握る手に、力がこもった。
「黒瀬蓮。あなたたちが世論を弄んでも、事実は変わらない」
「私は引かない。いつか必ず、みんなに美玲の本性を見せる」
随分時間をかけて、ようやく声を絞り出す。
掠れた喉で意思だけを告げ、私は迷わず通話を切った。
「ピロン、ピロン、ピロン!」
ソファに投げた途端、スマホがまた震え出す。
「黒瀬蓮、いい加減にして! 私はもう言った、あなたと美玲に屈しない!」
「そんな暇があるなら、あなたの愛人が私の作品を盗んでない証拠でも集めたら——」
出たくない。けれど鳴り止まない。
私は目を閉じたままスマホを掴み、乱暴に通話ボタンを押して、怒鳴りつけた。
「……えっと。申し訳ありません、私はご主人ではありません。黒瀬律くんの幼稚園で担任をしている、佐藤里奈と申します」
電話の向こうがしばらく沈黙したあと、女性の小さな吐息が落ちてきた。
「黒瀬律くんが園でお友だちと喧嘩になってしまって……今、病院にいます。来ていただけますか」
