第7話
あの無邪気な声が、もう二度と笑って「ママ」と呼んでくれることはない。
――黒瀬律。すぐに思い知る。
私は誰かに寄りかかって生きるために生まれてきたんじゃない。あなたの父親に嫁ぐ前だって、私は――手が届かないと憧れられる側にいた。
振り返って黒瀬律と言い争う気にはなれなかった。胸の奥でそう言い返すだけで、足を速める。黒瀬蓮たちの視界から、さっさと消えた。
「お子さん、どうしたの! 誰か! この子、気を失ってる!」
ほどなくして、エレベーターの前まで来た。
下りのボタンに指を伸ばしかけた瞬間、悲鳴みたいな叫び声が耳を裂く。
「子ども……?」
声のほうへ振り向くと、八、九歩先の床に、粉雪みたいに白くて可愛らしい男の子が倒れていた。
ぴくりとも動かない。頬から首筋にかけて、赤い発疹が広がっている。
――アナフィラキシー。
一瞬で察した。
黒瀬律はアレルギーが多かったから、私は子どものアレルギー症状と対処法を一通り勉強していた。
このまま放っておけば危ない。今この子は、文字通り命の瀬戸際だ。応急処置がなければ、二度と目を覚まさない可能性すらある。
「どいて!」
余計な面倒が降りかかるかもしれない、なんて考えている余裕はなかった。
私は人だかりを割って駆け寄り、首元に指を当てる。脈も呼吸もない。
すぐさま胸骨圧迫を始め、息を切らしながら周囲に怒鳴った。
「誰か医者を呼んで! エピネフリンを用意して! これ以上遅れたら助からない!」
「わ、分かりました! すぐ呼びます!」
私の声に弾かれるように、見ていた人たちが散って動き出す。
ほどなくして医師が駆け込んできて、エピネフリンが投与された。
すると男の子の状態は、目に見えて持ち直していく。
私はようやく息を吐いた。
救うなら最後まで――そんな気持ちのまま入院手続きまで済ませ、男の子を抱きかかえて病室へ運んだ。
「本当に間に合ってよかった。あなたの対応が遅れていたら、今日は命に関わっていましたよ」
主治医が、心底ほっとしたように言う。
「最近は、あなたみたいに責任感があって、応急処置までできる方はなかなかいません」
その言葉が終わるより早く、背後から、かすれているのに澄んだ子どもの声がした。
「おばさん……ぼくを助けてくれたの?」
次の瞬間、温かい小さな手が、私の指をきゅっと握った。
はっとして、ゆっくり見下ろす。
ベッドの上の男の子は、もう目を開けていた。黒い真珠みたいな瞳で私をまっすぐ見つめ――まるで天使でも見るみたいに。
「そうだよ。倒れてたとき、このおばさんが助けてくれたんだ」
「ご家族に連絡できる? 来てもらったら、きちんとお礼を言ってもらいなさい」
医師は男の子の頭を撫で、優しく言い聞かせてから病室を出て行った。
残されたのは、私と男の子だけ。
絡められたままの手を見つめ、私は小さく息をつく。
「……ねえ、ぼうや。パパとママの電話番号、分かる?」
ベッドの脇に腰掛け、連絡先を聞こうとした、その途中。
私の胸に、ふわりと温かい体が飛び込んできた。
「おばさん、気絶してる人に心臓マッサージできるなんて、すっごい! ぼく、おばさんのこと大好き!」
むちっとした腕が私の首に回り、頬が甘えるように肩へ擦り寄せられる。
嬉しさと憧れが、声いっぱいに溢れていた。
心肺蘇生ができることって……そんなにすごいこと?
抱き留めながら、私は一瞬ぼんやりする。
黒瀬律が、私がそれを学んだと知ったときの顔を思い出してしまった。
「ママ、なんでいつもパパのお金を無駄にして、そんな役に立たないこと習うの?」
「美玲さんみたいにパパの仕事を助けろなんて言わない。でもせめて、足を引っ張らないでくれる?」
そう言い放った、あの目。
嫌悪だけが詰まった目。
――どうして子どもが、十月十日お腹で育てた母親を、あんな目で見られるんだろう。
「おばさん、黙ってるってことは、いいってことだよね」
熱い唇が、ちゅっと私の頬に触れた。
「え? ぼうや、今なんて言ったの? おばさん、聞こえなかった」
私は慌てて我に返り、胸をえぐる記憶を無理やり奥へ押し込める。
そして顔を近づけ、膝の上の男の子に笑いかけた。
「今の、もう一回言って?」
男の子は顔を上げ、期待でいっぱいの目をした。
「おばさん、世界でいちばんすごい! ぼくのママになって。いい?」
その眼差しに射抜かれて、うっかり頷けば、この子はとびきり幸せそうに笑う――そんな錯覚がよぎる。
でも、私はこの子の母親じゃない。
私は指先で男の子の額をつつき、困ったように笑った。
「ありがとう。でもね、ママにはなれないよ。あなたにはちゃんとお母さんがいるでしょう? もしお母さんが知ったら、悲しくなる」
「ぼく、ママいない」
「ママ、ぼくとパパのこと、いらないって。出ていっちゃった」
笑みがすっと消えた。
男の子は俯いて、小さな指をもじもじといじりながら、今にも泣きそうな声で続ける。
「おばさん、お願い。断らないで」
「ぼくとパパ、すごいんだよ。おばさんがママになってくれたら、パパの会社、おばさんにあげる。ぼくのおこづかいも、ぜんぶあげる」
会社を……あげる?
この子、自分が何を言ってるのか分かっているのだろうか。
「そんなこと言っちゃだめ。お尻ぺんぺんされるよ」
思わず笑って、男の子の頬を両手で包み、からかうように言いかけた――そのとき。
病室の入口から、低くてよく通る声が響いた。
「神谷怜。ふざけるな」
