第1章

「鈴森さんの役職ですと、退職手続きの完了までおよそ一週間というところでしょう」

 人事部長は複雑な目を向けながら、静かにファイルを閉じた。会社に十五年勤めている彼は、私が朋幸に向けていた、あの熱烈で、どこか卑屈なまでの愛情をずっと見守ってきた人だ。

「岡野様は……ご存知なのですか?」

 やはり、彼はそう尋ねてきた。

 私は一瞬だけ言葉に詰まり、答えた。

「直接、私から伝えます」

 人事部長は頷き、何か言いたげに口ごもった後、最後に一言だけ告げた。

「……何はともあれ、鈴森さん。今後のご多幸をお祈りしております」

 私は微笑んで礼を言い、部屋を後にした。

 廊下に立ち、深呼吸をする。今朝家を出る前の光景が脳裏をよぎった。美理が私の服の裾を引っ張りながら尋ねてきたのだ。

『ママ、パパは今日、本当に遊園地に一緒に行ってくれるの?』

 私は彼女の頭を撫で、笑顔で約束した。

『ええ。パパが約束してくれたもの』

 彼がその約束を覚えているか不安だったのと、退職の件を打ち明けるべきか迷っていたこともあり、私は社長室へと向かった。

 最上階でエレベーターを降り、ドアを押し開けた瞬間、目の前に広がっていたのは凄惨な有様だった。

 桃香が目を赤くしてデスクの傍らに立っている。私が三日間徹夜して作成したデータ表はコーヒーの海に浸かり、文字が滲んで判読不能になっていた。

「岡野様、申し訳ありません……わざとじゃないんです」

 桃香は泣き出しそうな声で弁明した。

「温かいコーヒーを淹れ直そうと思っただけで……」

 朋幸は激怒しなかった。

 あの冷酷無情で知られ、部下が小数点を一つ間違えただけでクビを言い渡したこともある男が、今はただ呆れたように眉間を揉み、ティッシュを一枚引き抜いて彼女に差し出したのだ。

「もういい、泣くな。たかが書類一枚だろう」

 ドアの前に立ち尽くす私の心に、さほどの波風は立たなかった。どうせ温もることのない心だと分かっていたはずなのに、私は何を期待していたのだろう。

 部屋の中へ足を踏み入れる。自分でも驚くほど、私の声は凪いでいた。

「岡野様、そのデータ表は午後三時の会議で使用するものです。原本はそれしかありません」

 朋幸は微かに眉をひそめ、いつもの命令口調で苛立たしげに言い放った。

「なら、新しく作り直せ」

「バックアップはありません。再計算には最低でも六時間はかかります」

「それは君のミスだろう!」

 朋幸の声が急に荒らげられ、氷のような視線が私を射抜いた。

「チーフアシスタントでありながら、新人を指導する忍耐力すらないのか? すぐに彼女を連れて処理しろ。午後の会議までに完璧な書類を用意するんだ」

 躊躇いもなく私に責任をなすりつける姿を見て、不意に滑稽に思えた。

 五年。会社がどん底だった一番苦しい時期を共に乗り越え、胃潰瘍で三度も入院した私には、労いの言葉一つかけたことがないというのに。桃香はコーヒーをこぼしただけで、こうも底なしの庇護を受けられるのだ。

 口まで出かかっていた退職の言葉を呑み込み、私は伏し目がちに答えた。

「はい、承知いたしました」

 反論はせず、身を翻して社長室を出た。

 データを再計算する六時間、私は水一滴すら口にしなかった。

 桃香は隣の席に座り、スマホでネイルの画像を眺めながら、悪びれない無垢な瞳で私を見た。

「乃理子先輩って本当にすごいです。岡野様が重宝されるのも納得ですね」

 私は薄く笑った。以前はそうだったかもしれない。でも、それももうすぐ終わる。

 午後三時。私は再製本した書類を、時間通りに朋幸のデスクに置いた。彼は二ページほどめくると満足げに頷き、朝の不快な出来事などとうに忘れてしまったようだった。

「岡野様、今夜の予定はすべてキャンセルしてあります」

 私は静かな声で念を押した。

「今夜は美理の誕生日のお祝いで、遊園地に行くと約束されていましたよね。レストランとチケットの手配は済ませてあります」

 朋幸は一瞬呆然とし、ようやく思い出したようだった。腕時計に視線を落とすと、少しだけ表情を和らげた。

「分かった。お前は先に帰ってあいつを迎えに行ってやれ。俺は手元にあるこのメール二件を処理したら向かう」

 その言葉を聞いて、私の中で張り詰めていた糸がわずかに緩んだ。もしかしたら、彼にもまだ娘を気遣う心がほんの少しは残っているのかもしれない。

 夜七時。私は美理を連れて、遊園地の入り口にあるベンチに座っていた。

 夜風が少し冷たい。薄手の上着を着た美理は、買ってもらったばかりの風船を握りしめ、道路のほうをじっと見つめている。

「ママ、パパはどうしてまだ来ないの?」

「もうすぐよ。パパはお仕事が忙しいから、もう少しだけ待っていようね」

 私は彼女を抱き寄せ、自分の体温で少しでも温めようとした。

 七時半。

 八時。

 八時半。

 遊園地の照明は次第に暗くなり、人影もまばらになってきた。周囲には子どもと手を繋いで談笑する家族連ればかりで、ぽつんとベンチに取り残されているのは私たちだけだった。

 うつむき、私の腕の中で眠気に耐えきれず目を閉じながらも、依然として風船を握りしめている娘を見る。胸の奥を、何かに強く殴られたような気がした。

「美理、パパは今夜残業になっちゃって、来られないの」

 冷え切った小さな頬を両手で包み込む。目頭が熱く痛んだが、涙は一滴もこぼさなかった。

「ママと一緒に、小さなケーキを食べに行こっか?」

 美理の瞳から、一瞬にして光が消え失せた。彼女はうつむき、長い沈黙のあとで、小さな声で呟いた。

「パパはお仕事が大事なんだよね。知ってる」

 その短い一言が、私の限界を迎えさせた。彼女をきつく抱きしめ、声を詰まらせながら言う。

「美理。ママはいつだってあなたのそばにいるからね。ずっと、ずっとよ」

 美理は笑って頷いた。

「うん。美理も、ママが一緒にいてくれるから楽しいよ」

 私は立ち上がり、彼女の小さな手を引いた。仄暗い街灯の下、私たちの影はどこまでも長く伸びていた。

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