第3章
私が口を開きかけたその時、朋幸が遮るように言った。
「俺の従妹なんだ。しばらくここに住むことになってて。会社では言ってなかったから、その……」
言い終わるか終わらないかのうちに、私の心臓はギュッと縮み上がった。もう初めてのことではないのに、こうして存在を否定され、消し去られるような感覚を味わうたび、まるでナイフで心を抉られるような痛みが走る。
私は美理を自分のそばに引き寄せた。彼女は小さな顔を上げて私を見つめていたが、その瞳には戸惑いが色濃く浮かんでいた。
一刻も早くこの場を立ち去りたくて、私は身をかがめ、できるだけ明るい声を作って言った。
「美理、おじさんにご挨拶して」
美理はきょとんとして私と朋幸を交互に見比べた後、小さな唇をぎゅっと噛み締めた。
「朋幸おじさん……こんにちは」
彼女は目を赤くして私の手をきつく握りしめると、くるりと背を向けて私の足に顔を埋めた。
「ママ、いこう」
言いたいことはすべて喉の奥に閊えてしまった。私は立ち上がり、スーツケースを引いてエレベーターへと向かった。背後から桃香の甘ったるい声が聞こえてくる。
「朋幸、ちょっと荷物が多いの。持つのを手伝ってくれない?」
エレベーターの扉が閉まり、美理を抱き上げると、その小さな体は小刻みに震えていた。
「ママ。わたし、なにか悪いことした?」
「ううん、いいのよ。美理はなにも悪くないわ」
一階に到着し、扉が開いた途端、背後から慌ただしい足音が響いた。
「乃理子!」
階段を駆け下りてきた朋幸が、私の腕をきつく掴んだ。
「待ってくれ、さっきのは……ただの言い訳だ。美理には俺からちゃんと説明する。あの子が俺の娘であることに変わりはないんだから」
私は振り返り、彼を冷ややかな目で見つめた。
五年。
この五年間、彼は事あるごとに「待ってくれ」「説明する」「今だけだから」と言い続けてきた。しかし、それを実行に移したことなど一度たりともなかった。
「安心して。私と美理はもうあなたたちの邪魔はしないから。さっさと桃香さんのところに戻ってあげたら?」
朋幸の手が宙で固まる。私はその隙に腕を振り払い、スーツケースを引きずって外へ向かった。
「待って、近くのホテルまで送るよ」
追いかけてきた朋幸は、私が拒絶する間もなく車のドアを開けた。
車内は重苦しい沈黙に包まれていた。朋幸は何度か口を開きかけたが、結局はため息を漏らすだけだった。しばらく走った後、ふと何かを思い出したように車を路肩に停めた。
「ちょっと待ってて」
彼はトランクからケーキの箱を取り出してきた。
「美理、誕生日おめでとう」
箱を開けた瞬間、胸がギュッと締め付けられた。ケーキには手をつないだ男女の砂糖菓子が飾られ、その横にはハート形のプレートが添えられていた。どう見ても恋人同士のためのケーキだった。
私が慌てて蓋を閉じようとしたが、美理はすでにそれを見つけていた。
「ママ、ケーキだ! パパが買ってくれたケーキ!」
その声には弾むような喜びが混じっていた。拒絶されることを恐れるような、それでも期待を捨てきれないその響きに、私の心は思わずほだされた。
「パパ、いっしょに食べてくれる?」
朋幸は一瞬呆然としたが、やがて頷いた。
「ああ」
車内に再び静寂が戻る。私はケーキを三等分に切り分け、美理と朋幸に手渡した。美理は落とさないように慎重にケーキを両手で持ち、ようやくその顔にほんの少しだけ笑顔を浮かべた。
私も自分の一切れを口に運ぼうとした――その瞬間、全身が凍りついた。
「吐き出して!」
私は美理の手にあったケーキを思い切り叩き落とした。
「出して! 早く!」
指を突っ込んで美理の口の中に残っていたケーキを掻き出し、パニックになりながらティッシュを探した。
「乃理子、気が狂ったのか!? なにをしてるんだ!」
私は顔を上げ、彼の目を射抜くように睨みつけた。
「美理がピーナッツアレルギーだってこと、知らなかったの!? ねえ、知らなかったの!?」
朋幸はハッとして美理に視線を移し、そこでようやく彼女の首や腕に赤い発疹が出ていることに気づいた。
「俺……知らなかったんだ。ごめん、本当に知らなくて……」
美理は何も言わず、ただ私の胸元に顔を埋め、小さな手で私の服をぎゅっと握りしめていた。
「病院へ」
私の声は氷のように冷たかった。
「今すぐ」
朋幸は慌ててエンジンをかけた。車が走り出して間もなく、彼のスマートフォンが鳴った。桃香からだ。
『朋幸、いつ帰ってくるの? あたし、一人でここにいるのすごく怖いんだけど……』
スマホはハンズフリーになっていた。朋幸は画面を一瞥し、そして美理に目をやり、ハンドルを握る手に力を込めた。彼は躊躇していた。
「ここで停めて。病院はすぐそこだから、私たちだけで行くわ」
「乃理子……」
「停めて」
朋幸がブレーキを踏む。私は後部座席の隙間に離婚届を挟み込み、美理を抱きかかえて車を降りた。
「ごめん。必ず埋め合わせはするから」
私は何も答えず、無言でドアを閉めた。
病院で簡単な応急処置を受け、薬を処方してもらった後、私は美理を連れてそのまま空港へと向かった。飛行機が離陸する直前、私の腕の中で美理が目を覚ました。
「ママ、わたしたちどこにいくの?」
「新しい場所よ。ママと美理、二人だけの場所にいくの。いい?」
美理はこくりと頷いた。
「うん。ママがいるところなら、わたしもいく」
ついに堪えきれず、涙が頬を伝った。私はスマホを取り出し、朋幸の連絡先をすべて消去した。
朋幸、これからはもう、二度と会うことはないわ。
・
翌朝、朋幸は定刻通りに出社した。昨日の出来事が尾を引き、ひどく心がざわついていた。やはり病院まで送り届けるべきだった。せめて美理の無事を確認してから離れるべきだったのだ。今頃、彼女たちがどこのホテルに滞在しているのかも見当がつかない。
確認の電話をかけようとしたその時、パソコンのモニターに一通のメールがポップアップした。
【退職届 - 承認完了のお知らせ】
朋幸は眉をひそめた。
誰の退職届だ?
