第4章

 イヤな予感が胸をよぎった。クリックして確認しようとした矢先、執務室のドアが押し開けられる。

 入ってきたのは桃香だった。

「朋幸、豊川グループの人、もう会議室で待ってるわよ」

 朋幸は時計に目をやり、舌打ちをした。しまった。今日は重要な業務提携の商談が入っていたのを、すっかり失念していた。

「わかった」

 会議室では、対面に座る豊川グループの副社長が立て板に水とばかりに語っていたが、朋幸はどこか上の空で、ただ一刻も早くこの場を終わらせたいとばかり考えていた。

 その時だった。不意に会議室のドアが開かれ、数杯のコーヒーを乗せたトレイを手に、桃香が入ってきたのだ。

 朋幸は反射的に眉をひそめた。社内規定では、重要な商談の最中は、いかなる理由があろうとも何人たりとも許可なく入室してはならない。注意しようと口を開きかけた瞬間、桃香はあろうことか全員の目の前で大きくつまずき、手にしたコーヒーを勢いよくぶちまけた。褐色の液体は、先方の仕立ての良いスーツと、デスク上に広げられた契約書を無惨にも汚してしまった。

 会議室は水を打ったような静寂に包まれた。

 桃香は慌てふためいて拭き取ろうとするが、かえって汚れを広げるばかりだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい! わざとじゃないんです!」

 豊川副社長は顔を真っ青にして立ち上がるなり、冷たく言い放った。

「御社の管理体制には失望いたしました、岡野様。本件については、白紙に戻させていただきます」

 そう言い残し、アタッシュケースを手に足早に立ち去ってしまった。

 会議室に残されたのは、朋幸と桃香の二人だけ。

 桃香は涙ながらにすがりついてきた。

「朋幸、ごめんなさい……わたし、皆さんにコーヒーをお出ししようと思っただけで、こんなことになるなんて……わたしのこと、どんくさいって思ってるよね? これでも一生懸命がんばったのに……わたしのことが邪魔なら、今すぐ出ていくわ。わたしが乃理子さんに敵わないことくらい、わかってるから……」

 朋幸は彼女を見下ろし、怒鳴りつけようとしたが、不思議と怒りすら湧いてこなかった。

 ふと、ある思考が脳裏をよぎる。もし乃理子がここにいたら、彼女は絶対にこんな初歩的なミスは犯さない。先方が入室する前にすべての準備を完璧に整え、自分が求めた瞬間に的確なデータを差し出し、そして桃香が場を乱す前に、誰の気分も害することなく彼女を退出させていただろう。

 だが、今日乃理子は美理の看病で会社を休んでいる。だからこそ、アシスタント業務の一部を桃香に任せたのだ。

 そこまで考えて、朋幸の胸の内に名状しがたい虚無感がぽっかりと広がった。

「……君は先に出ていろ」

 疲労感も露わに、彼は絞り出すように言った。

 桃香は唇を強く噛みしめ、不満げな足取りで部屋を後にした。

     *

 広い会議室に、朋幸はただ一人取り残された。

 椅子に深く腰掛け、惨状を呈するデスクを眺めていると、彼の脳裏で無意識のうちに過去の記憶が再生され始めた。

――六年前。彼の会社は倒産の危機に瀕していた。投資家からは資金を引き揚げられ、社員は次々と離散し、抱え込んだ負債は雪だるま式に膨れ上がっていた。

 そんな最も苦しい時期に、大学を卒業したばかりの乃理子がアシスタントとして応募してきたのだ。華々しい経歴も、立派な後ろ盾もない。彼女の履歴書で唯一目を引いたのは、「死に物狂いで食らいつきます」という泥臭い一文だけだった。

 当初はまるで期待していなかった。だが、乃理子は自らの行動でその価値を証明してみせた。

 数え切れないほどの深夜、オフィスにたった二人きり。彼女は徹夜での企画書修正に付き合い、膨大な債務リストを整理し、時には自身のスズメの涙ほどの給与から会社の経費を立て替えることすらあった。取引先ごとの細かい嗜好をすべて暗記し、最も重要な局面で完璧なデータを提示し、彼が疲弊しきっている時には絶妙なタイミングで適温のコーヒーを淹れてくれた。そうやって二人三脚で、会社を倒産の淵から引きずり戻したのだ。

 周囲の誰もが、二人は天国で結ばれたような最高のパートナーだと言った。財界のパーティーでも、人々は口々に羨望の声を漏らしていた。

「岡野様があのような優秀なアシスタントを持てたことは、まさに天の配剤ですな」

 実際のところ、彼自身もそう思っていた。共に過ごした長く苦しい夜、自分を見つめる彼女の瞳に、確かな尊敬と恋慕の情が宿っているのを感じていた。そして彼自身もまた、肩を並べて戦い抜いた日々の中で、彼女に対して他とは違う特別な感情を抱くようになっていた。

 いずれ会社の経営が完全に軌道に乗った暁には、正式に想いを告げようとすら考えていた。結婚し、子供をもうけ、周囲が期待する通りに結ばれる未来を信じて疑わなかった。

――あの夜が訪れるまでは。

 それは、大型資金調達の成功を祝う祝賀パーティーの夜だった。酒をひどく飲まされた彼に、誰かが強引に「酔い覚ましの茶」を手渡した。その茶に睡眠薬か何かが混入されていたことを知ったのは、後になってからのことだ。

 翌朝目を覚ますと、隣には乃理子が横たわっていた。

 到底信じられなかった。彼女がこんな卑劣な手段を使うなどと。堂々と正面から結ばれる道があったはずなのに、なぜこんな真似をしたのか? 自分が彼女を深く愛していないとでも思ったのか? それとも、最初からすべて彼女の計算通りだったというのか?

 結果として乃理子は身籠った。彼は責任を取ることを選び、彼女に極秘結婚の契約書を突きつけた。だが、あの日を境に彼女への愛情は完全に凍結され、代わりに深い失望と煮えたぎるような怒りだけが残った。

 新たなアシスタントを採用する際にも、あえて乃理子とは正反対のタイプである桃香を選んだ。頭が空っぽで、無能で、甘ったれですぐに泣く女。そうすることで乃理子を罰し、同時に自分自身をも罰しているかのようだった。

 朋幸は静かにまぶたを閉じた。あれから何年もの歳月が流れたが、乃理子があの夜の出来事について弁解したことは一度たりともなかった。彼女はただ黙々と彼の冷遇に耐え、一人きりで美理を育て、彼に何かを要求することなどただの一度もなかった。

     *

 昨日、美理から「おじさん」と呼ばれたあの瞬間。乃理子と生き写しのあの瞳の奥で、かすかな期待の光が完全に消え失せるのを、彼はこの目で見た。

 さらには、あのアレルギーを無視したピーナッツケーキの一件。実の娘が何を口にしてはいけないのかすら把握していない自分に、果たして父親を名乗る資格などあるのか?

 そして先ほどの会議室での茶番劇が、彼に一つの明白な事実を突きつけた。確かに桃香は従順だ。しかし彼女の言う「素直さ」は、圧倒的な無能さの上に成り立っているに過ぎない。何一つまともにこなせず、ただ泣きわめくことしかできないのだ。

 この五年間、彼は幾度となく自分に言い聞かせてきた。桃香を傍に置くのは乃理子への当てつけであり、「君の代わりなどいくらでもいる」と見せつけるためなのだと。自分はそう簡単に誤魔化せるような男ではないと思い知らせるために。

 だが、これだけの歳月を費やして、自分は一体誰に罰を与えていたというのか?

 乃理子にか?

 それとも、自分自身にか?

 乃理子がいなければ、ごく日常的な商談一つ満足にまとめられず、ぶち壊しになる始末だ。

――もう、こんな子供じみた意地を張るのはやめにするべきかもしれない。

 もしかすると、これだけの歳月が過ぎた今、乃理子はもうあの頃のように「手段」を選ぶような人間ではないのかもしれない。

 あるいは……彼女と、一度腹を割って話し合うべきなのかもしれない。

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