第1章
十七歳のあの年、私には密かに想いを寄せる人がいた。
四方堂蓮。
私立桜花高校の学園の王子様。実家はチェーン店を展開する大企業で、住まいは麻布の豪邸。
一方、私は東京郊外の団地住まい。父は労災で脚を悪くし、母はコンビニのパートで家計を支えていた。
本来なら、交わるはずのない二つの世界。
けれど、高校三年の十月。彼は廊下で私を呼び止め、微笑んでこう言った。
「星野。俺の誕生日、付き合ってくれないか?」
「どこでですか?」
と私が訊く。
「銀座にあるレストランの屋上だ」
彼は顔を寄せ、声を潜める。
「俺たち二人きりで。七時だ、遅れるなよ」
私の顔は一瞬で赤く染まった。
あの日、午後から雪が降り始めた。
東京でこれほど早い初雪は珍しい。十一月の雪は唐突で、冷たく、そして湿っていた。
私は友人に借りたワンピースに着替え、制服を鞄に押し込むと、放課後のトイレに隠れた。
鏡に映る自分は薄着で、寒さに震えている。
それでも私は黒縁眼鏡を外し、髪を下ろし、少しだけリップを塗った。
六時半にはレストランの下に着いた。
雪の勢いは増すばかり。
傘もコートも持っていない。エレベーターを待っていると、警備員に呼び止められた。
「お嬢ちゃん、どこへ行くんだ?」
「あの……人と約束があって。屋上で」
警備員は訝しげに私をじろじろと見た。その眼差しは疑いに満ちている。
「屋上? こんな寒い日に、誰が屋上にいるんだ?」
「本当です。友達が待ってるんです」
「どなたかね?」
「四方堂蓮です」
警備員は少し驚いた顔をして、無線機を取り出した。
「四方堂様の個室だが、屋上へ上がるお客様はいらっしゃるか?」
無線機からスタッフの声が響く。
『いいえ、四方堂様は三階の個室にいらっしゃいます。屋上の話など聞いておりませんが』
警備員が私を見る。
「お嬢ちゃん、勘違いじゃないのか?」
「そんな……」
私の声は萎んでいく。
「友達なら、電話してみたらどうだ」
携帯を取り出す指先は、凍えて感覚がない。蓮の番号をコールする。長く鳴り続けたが、誰も出ない。
もう一度かけても、同じだった。
「もういい、そこで立ち止まらないでくれ」
警備員は面倒くさそうに手を振った。
「待つなら外でやってくれ」
私はレストランを出て、入り口の脇に立った。
雪が髪に、肩に積もり、すぐに服まで染みてくる。腕を抱きしめながら、何度も蓮に電話をかけた。
誰も出ない。
七時。
七時半。
八時。
通りの人は減っていく。店に出入りするのは華やかな装いの客ばかり。彼らは奇異なものを見るような目で私を見た。まるで狂人を見るように。
唇は紫色になり、足の指の感覚はもうない。
それでも、立ち去る勇気がなかった。
万が一、彼が本当に屋上で待っていたら?
万が一、彼が私を探しに来てくれたら?
九時半。限界だった。私は再びレストランに入った。
警備員は別の人に代わっていた。私は言った。
「四方堂蓮に会いたいんです」
「三階の個室だが……もうお開きに近いようだよ」
私は階段を駆け上がった。全身ずぶ濡れで、一歩進むたびに雫が滴り落ちる。
三階の廊下は静まり返っていた。個室のドアが半開きになっていて、中から話し声が漏れている。
ドアの前で立ち止まり、ノックしようと手を上げた。
その時、男の声が聞こえた。
「おい、蓮。今日はなんでクラスのあの委員長を呼ばなかったんだ?」
別の声が続く。
「あんな貧民窟の女、蓮に釣り合うわけないだろ」
「だよな。乞食みたいな恰好で、いつも卑屈な面してさ」
「どうせ玉の輿狙いだろ。身の程知らずが」
笑い声が大きくなる。
蓮は何も言わない。
私は待った。彼が反論してくれるのを。「そんなことない」と言ってくれるのを。
けれど、彼はただこう言っただけだった。
「あいつの話はやめろ」
私は手を下ろし、踵を返して走り出した。
階段を転げるように下り、レストランを飛び出し、通りへ。
雪はまだ降り続いている。頬を伝うのが雪解け水なのか涙なのか、もう分からなかった。
携帯が鳴った。
父からだった。
「春加……」
父の声が震えている。
「どうしたの?」
私は足を止めた。
「家が、大変なことになった」
父は嗚咽交じりに言った。
「家を騙し取られたんだ。闇金に手を出してしまった。金を返せなければ命はないと、あいつらが……」
頭の中が真っ白になった。
「お父さん、今どこ? 私、すぐに帰るから」
「春加……」
父の声は消え入りそうだった。
「すまない。父さんが不甲斐ないばかりに。母さんと……本当にすまない」
「お父さん!」
電話が切れた。
私は狂ったように地下鉄の駅へ走った。銀座から郊外の団地まで、乗り換えを含めて一時間。あの夜、一秒が一年のように長く感じられた。
家に着いたのは、もう十一時近かった。
玄関のドアは開けっ放しで、明かりもついている。けれど、人の気配がない。
テーブルの上に一枚の紙切れがあった。母の字だ。
『春加、ごめんなさい。お父さんとお母さんは、あなたに迷惑ばかりかけてしまった。強く生きてください』
私は紙切れを握りしめて家を飛び出した。
団地から隅田川までは十分ほどの距離だ。私は走り続け、叫び続けた。「お父さん!」「お母さん!」誰も答えない。
河川敷に着いた時、赤色灯が見えた。
パトカーだ。
野次馬の人だかり。
そして、水の中から引き揚げられたばかりの、二つの遺体。
私はその場に崩れ落ち、見慣れた二人の姿を見つめた。
父の脚は不自然に曲がったままで、母の手は、父の手を固く握りしめていた。
警察官が近寄ってきた。
「ご家族の方ですか?」
私は頷く。
「ご愁傷様です」
警察官は言った。
「遺書が残されていました。自ら命を絶ったようです」
私は何も言わなかった。
ただ跪いたまま、暗い川面を見つめていた。
雪はまだ降り続いている。
全身ずぶ濡れで、体は震えている。
けれど、もう寒さは感じなかった。
