紹介
けれど、彼は現れなかった。
聞こえてきたのは、個室からの彼の声。「スラム育ちの女なんて、俺に相応しいはずがない」
その晩、父と母は隅田川に身を投げ、命を絶った。
八年の時が流れ、私はあの時と同じ橋の上から、身を投げようとしていた。
その瞬間、四方堂蓮が駆け寄り、私の腕を掴む。私たちはもつれ合うように、氷のような川の中へ墜ちていった。
「八年間、ずっと君を探してた」
彼の声が、水の中で微かに響いた。
チャプター 1
十七歳のあの年、私には密かに想いを寄せる人がいた。
四方堂蓮。
私立桜花高校の学園の王子様。実家はチェーン店を展開する大企業で、住まいは麻布の豪邸。
一方、私は東京郊外の団地住まい。父は労災で脚を悪くし、母はコンビニのパートで家計を支えていた。
本来なら、交わるはずのない二つの世界。
けれど、高校三年の十月。彼は廊下で私を呼び止め、微笑んでこう言った。
「星野。俺の誕生日、付き合ってくれないか?」
「どこでですか?」
と私が訊く。
「銀座にあるレストランの屋上だ」
彼は顔を寄せ、声を潜める。
「俺たち二人きりで。七時だ、遅れるなよ」
私の顔は一瞬で赤く染まった。
あの日、午後から雪が降り始めた。
東京でこれほど早い初雪は珍しい。十一月の雪は唐突で、冷たく、そして湿っていた。
私は友人に借りたワンピースに着替え、制服を鞄に押し込むと、放課後のトイレに隠れた。
鏡に映る自分は薄着で、寒さに震えている。
それでも私は黒縁眼鏡を外し、髪を下ろし、少しだけリップを塗った。
六時半にはレストランの下に着いた。
雪の勢いは増すばかり。
傘もコートも持っていない。エレベーターを待っていると、警備員に呼び止められた。
「お嬢ちゃん、どこへ行くんだ?」
「あの……人と約束があって。屋上で」
警備員は訝しげに私をじろじろと見た。その眼差しは疑いに満ちている。
「屋上? こんな寒い日に、誰が屋上にいるんだ?」
「本当です。友達が待ってるんです」
「どなたかね?」
「四方堂蓮です」
警備員は少し驚いた顔をして、無線機を取り出した。
「四方堂様の個室だが、屋上へ上がるお客様はいらっしゃるか?」
無線機からスタッフの声が響く。
『いいえ、四方堂様は三階の個室にいらっしゃいます。屋上の話など聞いておりませんが』
警備員が私を見る。
「お嬢ちゃん、勘違いじゃないのか?」
「そんな……」
私の声は萎んでいく。
「友達なら、電話してみたらどうだ」
携帯を取り出す指先は、凍えて感覚がない。蓮の番号をコールする。長く鳴り続けたが、誰も出ない。
もう一度かけても、同じだった。
「もういい、そこで立ち止まらないでくれ」
警備員は面倒くさそうに手を振った。
「待つなら外でやってくれ」
私はレストランを出て、入り口の脇に立った。
雪が髪に、肩に積もり、すぐに服まで染みてくる。腕を抱きしめながら、何度も蓮に電話をかけた。
誰も出ない。
七時。
七時半。
八時。
通りの人は減っていく。店に出入りするのは華やかな装いの客ばかり。彼らは奇異なものを見るような目で私を見た。まるで狂人を見るように。
唇は紫色になり、足の指の感覚はもうない。
それでも、立ち去る勇気がなかった。
万が一、彼が本当に屋上で待っていたら?
万が一、彼が私を探しに来てくれたら?
九時半。限界だった。私は再びレストランに入った。
警備員は別の人に代わっていた。私は言った。
「四方堂蓮に会いたいんです」
「三階の個室だが……もうお開きに近いようだよ」
私は階段を駆け上がった。全身ずぶ濡れで、一歩進むたびに雫が滴り落ちる。
三階の廊下は静まり返っていた。個室のドアが半開きになっていて、中から話し声が漏れている。
ドアの前で立ち止まり、ノックしようと手を上げた。
その時、男の声が聞こえた。
「おい、蓮。今日はなんでクラスのあの委員長を呼ばなかったんだ?」
別の声が続く。
「あんな貧民窟の女、蓮に釣り合うわけないだろ」
「だよな。乞食みたいな恰好で、いつも卑屈な面してさ」
「どうせ玉の輿狙いだろ。身の程知らずが」
笑い声が大きくなる。
蓮は何も言わない。
私は待った。彼が反論してくれるのを。「そんなことない」と言ってくれるのを。
けれど、彼はただこう言っただけだった。
「あいつの話はやめろ」
私は手を下ろし、踵を返して走り出した。
階段を転げるように下り、レストランを飛び出し、通りへ。
雪はまだ降り続いている。頬を伝うのが雪解け水なのか涙なのか、もう分からなかった。
携帯が鳴った。
父からだった。
「春加……」
父の声が震えている。
「どうしたの?」
私は足を止めた。
「家が、大変なことになった」
父は嗚咽交じりに言った。
「家を騙し取られたんだ。闇金に手を出してしまった。金を返せなければ命はないと、あいつらが……」
頭の中が真っ白になった。
「お父さん、今どこ? 私、すぐに帰るから」
「春加……」
父の声は消え入りそうだった。
「すまない。父さんが不甲斐ないばかりに。母さんと……本当にすまない」
「お父さん!」
電話が切れた。
私は狂ったように地下鉄の駅へ走った。銀座から郊外の団地まで、乗り換えを含めて一時間。あの夜、一秒が一年のように長く感じられた。
家に着いたのは、もう十一時近かった。
玄関のドアは開けっ放しで、明かりもついている。けれど、人の気配がない。
テーブルの上に一枚の紙切れがあった。母の字だ。
『春加、ごめんなさい。お父さんとお母さんは、あなたに迷惑ばかりかけてしまった。強く生きてください』
私は紙切れを握りしめて家を飛び出した。
団地から隅田川までは十分ほどの距離だ。私は走り続け、叫び続けた。「お父さん!」「お母さん!」誰も答えない。
河川敷に着いた時、赤色灯が見えた。
パトカーだ。
野次馬の人だかり。
そして、水の中から引き揚げられたばかりの、二つの遺体。
私はその場に崩れ落ち、見慣れた二人の姿を見つめた。
父の脚は不自然に曲がったままで、母の手は、父の手を固く握りしめていた。
警察官が近寄ってきた。
「ご家族の方ですか?」
私は頷く。
「ご愁傷様です」
警察官は言った。
「遺書が残されていました。自ら命を絶ったようです」
私は何も言わなかった。
ただ跪いたまま、暗い川面を見つめていた。
雪はまだ降り続いている。
全身ずぶ濡れで、体は震えている。
けれど、もう寒さは感じなかった。
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