第2章
午前四時。東京の借家はがらんとしていて、窓の外は街灯さえ消え失せていた。
私は上半身を起こし、暗闇に向かって声を絞り出す。
「お父さん、お母さん……」
返事はない。
もう八年だ。二人は一度だって、私に会いに来てはくれない。
スマホを手に取ると、画面の光が目に刺さった。未読メッセージは999件以上、そのすべてが督促の連絡だ。一番下までスクロールすると、三日前に委員長から届いたメッセージが目に入った。
『春加、来週の同窓会、来る? 久しぶりだし』
私はその文面を、長い間見つめていた。
同窓会。
高校を卒業して八年、私は一度も同窓会に参加したことがない。
行きたくないわけじゃない。怖いのだ。両親のことを聞かれるのが、騙し取られたあの家の話をされるのが、そして何より——。
四方堂蓮の名前を聞くのが、怖い。
目を閉じると、あの顔が鮮明に浮かび上がってくる。
切れ長の目元、口角に浮かべた笑み、そして人を小馬鹿にしたような眼差し。彼は廊下の手すりに寄りかかり、ペロペロキャンディを口にくわえながら、軽薄に言い放った。
「あんな貧民窟の女が、俺に釣り合うわけないだろ」
この八年間、毎晩のように彼の夢を見る。
夢の中の彼はとても楽しそうで、私にこう問いかけるのだ。
「プライドはないのか、星野?」
あると言い返したい。けれど、いつも言葉になる前に目が覚めてしまう。一度覚醒してしまうともう眠れず、ただ朝が来るのを座って待つしかない。
私はベッドを出て、荷物をまとめ始めた。
部屋にはまとめるほどの物もなかった。ベッドが一つ、机が一つ、それに数着の着替えだけ。
それらを畳んでスーツケースに詰める。机の上には小さな箱があり、中には高校の卒業写真が入っている。蓋を開けると、写真はすでに色あせていた。
写真の中の蓮は私の隣で、不敵な笑みを浮かべている。私はその横でうつむき、前髪で顔の半分を隠していた。
長い間その写真を見つめていたが、結局、箱の中に戻した。
またスマホが震えた。
今度は督促ではない。委員長からだ。
『春加、結局来るの? みんな会いたがってるよ』
少し考えてから、私は返信した。
『行く』
メッセージを送ると、故郷へ向かう新幹線の始発チケットを取った。片道切符だ。帰りの分は買わない。
荷造りを終えた頃には、もう五時になっていた。ベッドに腰を下ろし、空っぽになった部屋を見渡して、ふと笑いがこみ上げてきた。
八年間、私は誰かが助けに来てくれるのを待ち続けていた。両親が帰ってくるのを、借金が消えるのを、誰かが「生きていていいんだよ」と言ってくれるのを。
けれど、誰も来なかった。
六時半、私はスーツケースを引きずって部屋を出た。廊下は薄暗く、電灯はずっと壊れたまま放置されている。手探りで階段を下り、二階を通り過ぎたとき、隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。
夫婦喧嘩だ。
女が泣きながら叫んでいる。
「子供だっているのよ、こんなことして……」
男の声は冷たい。
「だからどうした?」
私は足を止めた。両親のことを思い出す。二人は決して喧嘩をしなかった。父は足が悪く、母は毎日父を支えて散歩していた。母が病気のときは、父が毎日スペアリブの煮込みを作ってあげていた。
二人はとても愛し合っていた。
だから闇金が家に押し寄せたとき、二人は一緒に死ぬことを選んだのだ。
私は階段を下り続けた。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
土曜日の夕方、新宿の居酒屋。
スーツケースを引きずって店の前まで来ると、ガラス越しに満席の店内が見えた。田中美咲が入り口に立ってタバコを吸っている。車から降りた私を見るなり、彼女は品定めするように視線を上から下へと這わせた。
「あら、まさか本当に帰ってくるなんて」
彼女は紫煙を吐き出した。
「八年ぶりだけど、相変わらず貧乏くさいわね」
私は視線を伏せ、店の中へと入った。
個室には七、八人の高校の同級生が座っていた。笑顔で挨拶してくる者もいれば、ただ一瞥するだけの者もいる。壁に掛けられたテレビからはフジテレビのバラエティ番組が流れていて、笑い声が耳障りだった。
「春加!」
江雪が隅の席から立ち上がり、私の手を取った。
「すごく痩せた……」
彼女の手は温かかった。私はその指を握り返し、小さく頷いた。
「座って」
江雪は私を座らせると、声を潜めた。
「委員長が蓮を迎えに行ってる。もうすぐ来るって」
私の指が凍りついた。
田中美咲がビールジョッキを片手に正面に座り、箸で皿の枝豆をつつきながら言った。
「そうそう、春加。知ってる? 蓮、あんたのこと八年も探してたのよ」
個室がふいに静まり返った。
私は顔を上げ、彼女を見つめた。
「八年よ」
彼女は繰り返し、意地悪く笑った。
「あんたが消えたあの日から、東京中の知り合いに頼んで探し回ってたわ。ずいぶんお金も使ったみたい。四方堂家の跡取りが、たった一人の女のために……」
「美咲」
江雪が眉をひそめる。
「何よ?」
田中美咲は椅子の背にもたれかかり、ジョッキを揺らした。
「間違ったこと言った? 彼、婚約だって三年も延期したのよ。佐藤さんも気が狂いそうだったでしょうね」
指先が冷え始めた。
婚約。
「まだ好かれてるとでも思った?」
田中美咲は身を乗り出し、冷ややかな目で私を見た。
「夢見ないで。彼はただ、あんたに直接謝りたかっただけよ。だって、あの時の言葉……」
彼女は一瞬言葉を切った。
「『あんな貧民窟の女が、俺に釣り合うわけないだろ』——あれは流石に言い過ぎだったもの」
私は伏し目がちになる。
あの言葉。
銀座のレストランの個室。四方堂蓮の友人たちが爆笑する中、彼は人垣の中央に立ち、無表情だった。私はドアの外に立ち尽くし、雨でずぶ濡れのまま、彼がそう言うのを聞いていた。
「蓮、もうすぐ着くって」
委員長がドアを開けて入ってきて、私を見た。
「春加、どう返すか今のうちに考えとくか?」
私は立ち上がった。
「もう待たない」
江雪が私を引き止める。
「どこに行くの?」
「青山霊園」
私は彼女を見て言った。
「お父さんとお母さん……八年も帰ってないから、会いに行かないと」
田中美咲が鼻で笑った。
「逃げるの? 相変わらずね、星野さん」
私は彼女を無視し、背を向けて個室を出た。スーツケースを引きずって新宿の街を歩く。雨上がりの路面に、ネオンがまだらな影を落としていた。
タクシーが青山霊園の入り口で止まった。
ビニール傘を差して中へ入ると、土の生臭さが雨水と混じり合って漂っていた。墓地は静寂に包まれ、石碑を打つ雨音だけが響いている。
両親の墓石は綺麗だった。誰かが定期的に掃除してくれているのだろう。
私はしゃがみ込み、バッグからコンビニで買った線香を取り出した。火をつけると、香炉に立てる。煙が雨の中で揺らめき、まるで八年前の隅田川で跳ねていた波光のようだった。
「お父さん、お母さん」
声が掠れた。
「ただいま」
スマホが震えた。
江雪からのLINEだ。
『蓮が着いた。春加はどこだって聞いてる』
私はスマホの電源を切り、墓碑を見つめ続けた。雨水が傘の縁から滴り落ち、「星野建国」「星野秀英」という文字を濡らしていく。
私は目を閉じた。
隅田川は、すぐ近くだ。
傘を差し、川の方へと歩き出す。夜の東京は静かで、遠くに見えるコンビニの明かりと、時折通り過ぎるタクシーだけが動いている。雨が傘を叩き、密度の高い音を立てていた。
私は隅田川にかかる橋の中央まで歩き、足を止めた。
橋の下では、深く暗い川の水が流れている。八年前と、全く同じように。
