第3章
橋の上には人影がない。私は欄干を乗り越え、冷たい鉄パイプに両手を突っ張った。
眼下には黒い川面が広がっている。音はなく、まるで巨大な口のようだ。
風が強い。
父さんと母さんが最後に繋いでいた手を思い出す。
「星野!」
私はハッとした。
あの声は——
「飛ぶな!」
振り返る。
蓮が橋の向こうから走ってくる。髪は乱れ、部屋着のままだ。彼は欄干まで駆け寄ると、私の手首を掴んだ。
「正気か?」
彼は息を切らしている。
「上がれ!」
私は伏し目がちになった。
「どうして助けるの?」
「お前——」
私は手を離した。
体が後ろへ傾いた瞬間、蓮が欄干を乗り越え、私の襟首を掴んだ。
そして私たちは、一緒にもつれ合うように川へ落ちていった。
冷たい水が鼻腔に流れ込んでくる。
沈んでいく視界の中で、蓮が必死に泳いでくるのが見えた。彼の手が私の腕を掴み、上へと引き上げる。
振りほどこうとした。
だが、彼の力は強かった。
水面が近づいてくる。
水面に顔を出した時、蓮は激しく咳き込んでいた。彼は不格好な泳ぎで私を引きずりながら、岸へと向かう。
「動くな!」
彼は怒鳴った。
「お前、俺まで殺す気か?」
私は目を閉じた。
目が覚めると、知らないベッドの上にいた。
部屋は広く、インテリアはシンプルだ。壁には抽象画が数枚飾られている。ベージュのカーテン越しに、微かな朝の光が差し込んでいた。
上体を起こす。
ドアが開いた。
一人の女が入ってくる。肩まである長い髪、白いネグリジェ。私が起きているのを見ると、彼女の顔色がさっと変わった。
「あなた誰? どうして蓮の家にいるの?」
私は言葉に詰まる。
彼女は腕を組み、ベッドのそばまで歩み寄った。
「ねえ、聞いてるんだけど。なんで蓮の家にいんのよ。しかも彼の部屋で寝てるなんて!」
独占欲に満ちた目だ。
私は目を伏せた。
「彼とは知り合いじゃない。助けてくれただけで……」
「佐藤雪」
入口から蓮の声がした。
彼は清潔な服に着替えていたが、髪はまだ濡れている。彼は女を一瞥してから、私を見た。
「目が覚めたか?」
頷く。
佐藤雪が振り返る。
「蓮、この女は誰?」
「高校の同級生だ」
蓮が部屋に入ってくる。
「ちょっと事情があってな、助けたんだ」
「同級生?」
佐藤雪は私をじろりと見た。
「私の知らない子だけど?」
「お前とはクラスが違ったからな」
蓮は言った。
「いいから、先に出ててくれ」
佐藤雪は唇を噛み、私を睨みつけると、踵を返し出て行った。
部屋には私と蓮だけが残された。
彼はベッドの端に腰を下ろし、長い沈黙が流れた。
「なんで飛び降りようとした?」
彼が問う。
私は答えなかった。
「俺のせいか?」
ドキリとした。
蓮は私を見つめている。
「高三の時の誕生日、俺が行かなかったこと。まだ気にしてるのか?」
私はシーツを握りしめた。
「それと、ご両親のこと」
彼は続けた。
「聞いたよ」
私は顔を背け、窓の外を見た。
「八年だぞ、星野」
蓮が言う。
「ずっとお前を探してた」
「探してどうするの」
「謝りたくてな」
私は笑った。
「謝ったんだから、もう満足でしょ?」
蓮は黙り込んだ。
しばらくして、彼が口を開く。「俺、結婚するんだ」
私の手が凍りついた。
「来月だ」
と彼は言う。
「さっきの彼女、佐藤雪とな。家同士の付き合いもあってさ」
「そう」
私は言った。
「おめでとう」
「結婚式、来てくれるか?」
私は彼を見た。
その瞳は真剣だった。
「行くわ」
私は答えた。
私は一ヶ月契約のマンスリーマンションを借りた。
部屋は狭い。あるのはベッドと机だけ。窓を開けても、見えるのは隣のビルの壁だけだ。
ベッドに座り、スマホに届いた招待状を眺める。
日付は来月の十五日。
あと三十日。
スマホを放り出し、ベッドに横たわる。
天井にひび割れが一筋走っている。
その亀裂を見つめながら、蓮の言葉を反芻する。
『ちゃんと生きろよ』
瞼を閉じる。
三十日後、私は彼の結婚式に行く。
その後は?
その後で、終わりにしよう。
全てを終わらせるのだ。
