第1章

由樹視点

 、政也はプライベートクラブで五周年の記念品を贈ってくれた。私の名前を冠したクルーズ船だ。周囲は口を揃えて、私が世界で一番幸せな女だと言った。

 五年前、彼は私を娶るために一族と絶縁し、裸一貫から今の地位を築き上げた。その優しさのすべては、私だけに向けられていたはずだった——午前三時に作ってくれたオートミール、腕時計の裏に刻まれた私の名前、そして帰宅するたびに欠かさず口にする「ただいま」の言葉。

 だが、上村妃菜から送られてきたあの写真とカルテがなければ、私は一生知ることはなかっただろう。私が不妊に悩み、自分を責め続けていたこの五年の間に、彼がとっくに別の女に子供を産ませていたことを。

 皮肉な話だ。五年の待機、五年の失望、数え切れないほどの検査と治療の果てに——ようやく、私は妊娠したというのに。

 不意に、政也が私を抱き寄せた。

「由樹」

 耳元をくすぐる吐息。

「今日は様子がおかしいぞ」

 私は瞳を閉じ、眼窩の中で溢れそうになる涙を堪えた。

 彼の腕の中は変わらず温かい。シダーウッドのコロンの香りが鼻腔をくすぐり、この偽りの温もりに溺れてしまいそうになる。

 いっそ自分を騙してしまおうか——やり直せるはずだ、私たちの子を二人で育てていこう、と。

 私は口を開きかけた。

「政也、私、もう——」

 唐突に、携帯の着信音が鳴り響いた。

「すまない、由樹」

 彼は画面を一瞥し、眉をわずかに顰めた。

「仕事のトラブルだ。処理してくる」

 そう言い残して、彼は個室を出て行った。

 取り残された私は、ドアの向こうに消えた背中を見つめていた。周囲の友人たちはまだ興奮気味にあのクルーズ船の話題で盛り上がっている。私の顔に張り付いた笑みが、とっくに凍りついていることになど誰も気づかずに。

 三十分後、スマホが震えた。

 妃菜から写真が届いたのだ。

 写真の中の政也は、趣味良く飾り付けられたベビールームに座り、おくるみに包まれた赤ん坊を抱いていた。俯いたその眼差しは、溶けた砂糖のように甘く——私が一度も見たことのない慈愛に満ちていた。

 添えられたメッセージは、たった一言。

『政也さんは、いいパパになるわ』

 指先からスマホが滑り落ち、鈍い音を立てて絨毯に沈んだ。

 私は笑っていた。涙が溢れて止まらないほどに。

 十歳の時、父は浮気をして母を捨てた。

 十五歳の時、母は病死した。行き場をなくして父と継母の家で暮らしたが、そこには私の居場所などなかった。

 だから十八歳で父と縁を切り、天涯孤独の身で人生をやり直したのだ。

 政也と出会った時、ようやく安住の地を見つけたと思った。

 だがまたしても、私は間違っていた。

 あのプレゼントも、優しさも、永遠の愛の誓いも——すべては、この男の良心が僅かに痛んだ時の施しに過ぎなかったのだ。

 政也、あなたは私の信頼を裏切った。

 今回ばかりは、絶対に許さない。

 パーティーがお開きになっても、私は運転手も呼ばず、家にも帰らなかった。

 タクシーを拾い、一度も行ったことのない場所——クイーンズにある中古車販売店へ向かった。

「目立たない車を一台」店主に告げる。

「二日後に取りに来るわ」

 店主は私をじろりと見たが、何も聞かずにただ頷いた。

 屋敷に戻っても、政也はまだ帰っていなかった。

 階段の踊り場に立ち、リビングを見渡す。二人で選んだ油絵、ダイニングには彼が特注してくれたクリスタルのシャンデリア、庭には手ずから植えたバラ——この屋敷の至る所に、私たちの思い出が刻み込まれている。

 私はそっと下腹部に手を当てた。そこには、小さな命が芽生えている。

「ごめんね、赤ちゃん」

 声を押し殺して呟く。

「嘘に塗れた世界で、あなたを育てたくないの」

 あと二日。

 あと二日だけ幸せな妻を演じきれば、この虚構のお伽噺から完全に抜け出せる。

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