第2章
由樹視点
スマホが震えた。政也からのメッセージだ。『今夜は緊急会議が入ったから、帰りが遅くなるかもしれない。先に休んでてくれ。おやすみ』
私はその「おやすみ」という四文字を見つめ、口元だけで弧を描く。
そして、電源を落とした。
ドレッサーの引き出しには、世界各地から持ち帰られたチョコレートが整然と並んでいる。とっくに賞味期限が切れているものもあるけれど、ずっと捨てられずにいた。今、私はそれらを一箱ずつゴミ袋へと放り込んでいく――ベルギーのトリュフ、スイスの手作りキャンディ。全部だ。一箱捨てるたびに、虚構の優しさを一枚ずつ剥ぎ取っていくような気がした。
ベッドサイドに積まれていた、彼がこっそり買い集めてくれたサイン本。それらを一冊ずつ段ボールに詰め、ガムテープで封をし、納戸の隅へと押しやる。かつては涙が出るほど感動したその心意気も、今となってはただの嘘の装飾品に過ぎない。
最後に、私はウォークインクローゼットに立ち、彼が選んでくれたドレスやコート、ハイヒールを眺めた。どの一着にも記憶が付着している――パリで彼がどうしても買うと言い張ったワンピース、一昨年の誕生日に花束の下に隠されていたサプライズの靴。
何一つ、持っていくつもりはない。
これらは本来、私のものではないのだから。彼が丹精込めて作り上げた「完璧な夫」という配役の持ち物に過ぎないのだ。
政也が帰ってきたのは、翌朝のことだった。
ドアが開き、袖を肘まで捲り上げ、ネクタイを緩め、ジャケットを腕に掛けた彼が入ってくる。朝陽が彫りの深い横顔を照らし出す。その姿は妙に活気に満ちていて、眉宇には満ち足りたような弛緩さえ漂っていた――それは到底、徹夜で残業した人間の顔ではない。
「昨夜は帰れなくて悪かった」彼は身を屈めて私の額に口づけを落とす。微かに、馴染みのない香水の匂いがした。
「交渉が長引いてね」
私は彼の余裕綽々とした態度を見つめながら、心の中で冷たい笑いを浮かべる。
精力が有り余っていなければ、二人の女の間を立ち回ることなどできはしないだろう。
「いいのよ」私はいつものように優しく彼のネクタイを整える。
「お仕事なら仕方ないわ」
彼は私の手を握り、親指で手の甲を優しく愛撫した。
「今日は記念日のディナーに着ていくドレスを選びに行こう。佐藤に言って午後の予定は空けさせたよ」
「ええ、分かったわ」私は微笑んだ。
どうせ、これで最後なのだから。
◇
ÉclatはV市で最も手に入りにくいオートクチュールのセレクトショップだ。予約は通常三ヶ月待ち。けれど政也にかかれば、電話一本で扉は開かれる。
店長自らが出迎え、営業用の満面の笑みを浮かべる。「小岩井様、奥様、ようこそお越しくださいました」
店内は柔らかな照明に包まれ、陳列されたドレスは博物館の展示品のように、クリスタルの光を受けて控えめな輝きを放っている。政也は自然な仕草で私の腰に手を添え、ラックの間をエスコートする。時折一着手に取っては私の体にあてがい、小首をかしげて真剣に吟味した。
店員が傍らで感嘆の声を漏らす。
「小岩井様は本当に素敵な旦那様ですね。お忙しいのに、こうして奥様のお洋服選びにお付き合いされるなんて。本当に奥様を愛している男性は、決して『時間がない』なんて言い訳をなさらないものですわ」
政也は否定もせず、ただ微笑んで、私の髪に口づけさえ落としてみせた。
周囲の客から羨望の眼差しが注がれる――ハンサムな夫、慎ましやかな妻、その一挙手一投足から溢れ出る「愛されている」というオーラ。
なんて完璧な絵画だろう。
残念ながら、その額縁の中には亀裂が走っている。私にしか見えない亀裂が。
私は淡いグリーンのサテンドレスを選んだ。生地は透き通るほどに薄く、襟元には早朝の草葉に宿る露のような、繊細な手刺繍が施されている。試着室の鏡には、痩せこけて蒼白な女が映っていた。鎖骨の陰影がまるでナイフで刻まれた溝のように深い。
五年もの間、求め続けても授からなかった子供という存在が、どれほど私の血肉を削ぎ落としていったか。それは私自身にしか分からないことだ。
私は深く息を吸い込み、試着室のドアを開けて政也のもとへ向かおうとした。
しかし――
向かいの姿見の前で、もう一人の女が全く同じ淡いグリーンのサテンドレスを身に纏い、横向きになって自分を眺めていた。
上村妃菜だ。
彼女は私よりずっと豊満だった。出産を終えたばかりの身体つきは美観を損なうどころか、かえって熟れた果実のような艶めかしい韻味を添えている。ドレスは彼女の身体によって柔らかな弧を描き、母性的な曲線を浮かび上がらせていた。まるで彼女のために仕立てられたかのように。
それに引き換え、私はどうだ? まるでハンガーじゃないか。
思わず考えてしまう――こんな女を、誰が拒めるというの?
「由樹さん?」先に口を開いたのは妃菜だった。声には程よい驚きが含まれている。
「奇遇ね、いらしてたの?」
彼女は笑みを浮かべて歩み寄ると、まるで長年の親友かのように私の腕に馴れ馴れしく絡みついてきた。その過剰な親密さに、私の全身が強張る。
「この店、私のなの」彼女は何でもないことのように言い、傍らのベルベットの什器を指先でなぞった。
「出産した年に、子供の父親がプレゼントしてくれたのよ。彼のためにあれだけ頑張ったんだから、綺麗なものに囲まれて愛される資格があるって」
『子供の父親』と言う時、彼女の声は少しだけ上擦り、そこには暗黙の了解めいた優越感が滲んでいた。
そして、彼女が政也に向ける視線――
それは独占欲。所有権の主張。
そして、勝者の眼差しだった。
そんな場所に、私は彼に手を引かれて連れてこられたのだ。彼女の店に。彼女の子供の父親の金で、彼女の商品を買うために。
これは何? 施しか? 屈辱か? それとも彼らの間で交わされた、ある種の阿吽の呼吸によるゲームなのか?
胸の奥を力任せに鷲掴みにされたような鈍痛が、心臓から喉元へと這い上がってくる。
……息が、できない。
