第1章
私は死んだ。
彼が好きな女を守るために、私を脅して殺人犯をおびき出せと迫った――あの夜に。
死んだあとの私の遺体は標本にされ、ガラスの展示ケースの中に閉じ込められた。
なのに藤原浩史は、突然、気が狂ったみたいに……。
H市、藤原家。
どうしてだろう。死んだはずの魂が、この家に戻ってきた。
「西子、まだ連絡つかないの? もう何日よ」
藤原叔母がソファに腰を下ろし、小さくぶつぶつとこぼす。
「この子、いつもはちゃんとしてるのに……私の電話を無視するような子じゃないわ。何かあったんじゃ……」
私は藤原家の養女だ。十八のとき、この家に来た。
母は藤原叔母のいちばんの親友で、両親が交通事故で亡くなったあと、叔母が私を藤原家へ引き取ってくれた。
「母さん、放っとけよ。もう大人なんだし、何があるってんだ」
藤原浩史は苛立ったように時間を確かめる。
「今日は恵美の誕生日だ。俺、先に行く」
藤原浩史を見て、私は自嘲気味に笑ってしまう。
この人が私の生死なんて気にするわけがない。
昔の私たちは、家族が「幼なじみ」だと言う関係だった。
私はいつも彼の後ろをついて回り、彼は私の手を引いてくれた。
「好きだ」
そう言われた私は、馬鹿みたいに十年も彼を愛した。
でも、若い頃の感情なんて薄っぺらい。
藤原浩史が「本当の愛する人」に出会った瞬間、私たちの間にあったものは、跡形もなく消えた。
「浩史……最近、外で連続殺人の噂が出てるでしょう。若くて綺麗な女の子ばかり狙うって……」
叔母は不安そうに胸元を押さえ、声を落として続ける。
「妙に胸騒ぎがするの。西子に連絡してちょうだい。私が会いたがってるって」
両親が亡くなってから、藤原叔母だけが私を守ってくれた。
母親みたいに寄り添い、実の娘のように可愛がってくれた。
慰めたかった。抱きしめたかった。
でも、もうできない。
それどころか……こんなにも苦しませてしまっている。
「叔母さん、ごめんなさい……」
喉が詰まって声が震える。両腕を広げて抱きしめようとしても、指先は空を切るだけだった。
「恩知らずだな。拗ねてるにしても、母さんの電話に出ないとか……反抗期かよ」
藤原浩史が私のことを口にするとき、そこにあるのは露骨な嫌悪だけ。
あの年。藤原浩史が誘拐犯に車ではねられて怪我をしたとき、私は命がけで連中を引きつけた。
ただ、彼に生きてほしかった。
意識を失う直前、彼は言った。
――西子、俺が一生大事にする。
それが今では、私は「恩知らず」。
「藤原浩史、私、死んだよ。これであなたは自由。やっと解放された」
彼の目の前に立っても、当然、届かない。
「結局、私はずっと……あなたにとって恩知らずだったんだね」
「浩史……あなたが西子と結婚したくないのは分かるけど、婚約はあるのよ。小さい頃から一緒に育って、情もあるでしょう」
叔母は必死だった。
「もう関係も持ったんだし、娶らないなんて……あの子のお母さんに、私、どう顔向けすれば……」
藤原浩史の顔が一段と冷える。
「幼なじみとか、もういい。いっしょに育ったら必ず結婚しなきゃいけないのか?」
吐き捨てるように言った。
「全部あいつの一方通行だ。子どもの頃の約束を盾にして、俺と結婚するために自分から誘ってきた。恥ってもんがない」
全身が震えた。殴りつけようとしても、手はすり抜ける。
「藤原浩史……このクズ……!」
あの夜、狂ったみたいに私に触れたのは彼のほうだった。
なのに事後、私が仕組んだと言い張った。
……。
藤原浩史が家を出ると、私の魂は引きずられるように彼について行き、白野恵美の誕生日パーティーへ向かった。
会場に入るなり、藤原浩史の仲間たちが笑って白野恵美を「嫂子」と呼ぶ。
「嫂子、誕生日おめでとう! 浩史君、今日のために相当気合い入れてるっすよ」
藤原浩史は白野恵美に甘い笑みを向け、周囲の囃し立ての中でプレゼントを差し出した。
「浩史、西子……まだ連絡ないの?」
白野恵美が思い出したように、小声で尋ねる。
私は冷笑した。
――白々しい。私を殺したのは、あんたでしょう。
藤原浩史は眉をひそめる。
「今その話、空気悪くなる」
白野恵美は柔らかく笑った。
「でも……一応、あなたの妹だし。そんな言い方しないで」
「妹?」
藤原浩史は鼻で笑った。
「あいつ、お前を殺しかけたんだぞ。それでも庇うとか、善良すぎる」
白野恵美は藤原浩史に抱きつき、甘えるように頬を寄せた。
「私は平気……」
私は藤原浩史の前に立ち、必死に叫ぶ。
「違う! 私は何もしてない! 私を殺したのは――白野恵美だ!」
「藤原浩史! 私を殺したのは、あいつ!」
届かない。
彼には、聞こえない。
泣き叫んで、説明して、説明して……。
繰り返すうちに、急に疲れた。
藤原浩史は、最初から一度も私を信じたことがない。
「聞いた? 連続殺人犯、まだ捕まってないんだって。もう六体も見つかってるらしいよ。全員、美人」
誰かが話題にする。
「この前、白野恵美さんも狙われてたよな? 浩史君がガチガチに守ってたから助かったけど」
「本川西子が囮になっても出てこなかったってさ。殺人犯にすら相手にされないとか、ウケる」
「な。殺人犯にすら選ばれない女が、白野恵美さんと張り合えるわけない」
藤原浩史の胸が、なぜかぎゅっと縮む。苛立ったように言った。
「その話、今するな」
煙草に火をつけ、また電話が鳴った瞬間、彼は出た。
「……もしもし?」
『藤原浩史さんですか。H市刑警隊です。本川西子さんは、あなたの何にあたりますか』
藤原浩史が勢いよく立ち上がり、周囲に手で合図する。
「全員、黙れ!」
緊張で指先が白くなる。
「本川西子は……妹です」
私はそれを聞いて、ふっと笑った。
死んでもなお、私は「妹」。
『事件現場付近で、彼女の携帯と所持品が見つかりました。確認に来てください』
