第2章
藤原浩史の背中を追うようにして、私は刑警隊の建物へ入った。
「藤原浩史さん、こちらでご確認を」
警察官が机の上に遺留品を並べる。服、携帯、バッグ――どれも、私のものだった。
藤原浩史の顔色はひどく悪い。長い沈黙ののち、ようやく低い声が落ちた。
「……彼女はどこだ」
「申し訳ありません、藤原さん。現時点の見立てでは、被害に遭った可能性が高いです。ただ、遺体はまだ――」
「もういい。調べなくていい」
藤原浩史が薄く笑う。その笑みは冷たく、刃物みたいだった。
「警力の無駄だ。あいつがそう簡単に死ぬわけない」
胸の奥が、すうっと冷えていく。
「わざと物を置いて、俺に考えさせて……罪悪感を煽って、折れさせるつもりなんだろ」
――この人は、私が死んだことを信じない。
彼の中の私は、目的のためなら手段を選ばない女で。
できることなら、本当に死んでほしい存在で。
「藤原さん……本当に、そう断言できますか?」
警察官が怪訝そうに眉を寄せる。
「断言する」
藤原浩史は頷き、妙に真面目な顔で言い切った。
「ご迷惑をおかけしました。この件は俺が片をつける。三日以内に、必ず連れ戻す」
目が暗い。沈んでいる。怒っている。
――私が、今回「やりすぎた」とでも言いたげに。
笑いたくなった。
藤原浩史のそばで、私は笑って……途中で笑えなくなった。
私は死んでいるのに。
彼は今、捜査の時間を奪っている。
あの日だってそうだった。
最後の救助要請は、藤原浩史にかけたのに。
出た彼は、苛立ちを隠しもしない声で吐き捨てた。
「本川西子、いい加減にしろ。いつまでやる気だ? ……死ねば?」
私は絶望して携帯を放り投げた。
そのあと犯人に薬で意識を奪われ、連れ去られ――そして、死んだ。
「鈴宮若葉。本川西子はどこだ」
刑警隊を出るなり、藤原浩史は怒気を孕んだ声で電話をかけた。
「さっさと戻せ。もう隠れるな」
鈴宮若葉は、私の唯一の友達だった。
私は彼女に、さよならすら言えなかった。
『藤原浩史、あんた何言ってんの? こっちが聞きたいわよ。西子はどこ! あんた、どこにやったの!』
「伝えろ。最後のチャンスだ」
藤原浩史の息が荒い。言葉が、やけに急いでいる。
「明日、今すぐ帰ってこい。じゃなきゃ――外で野垂れ死んでも、俺は収容なんかしてやらない」
何をそんなに焦っているの。
呼吸まで乱して。
私はその場に立ち尽くし、乾いた笑いを漏らした。
「しなくていいよ。だって、あなたには見つけられない。私の遺体なんて」
『西子が失踪したの! 私、もう通報した!』
鈴宮若葉の声は泣き混じりで、怒鳴るたびに震えていた。
『この人でなし! 西子に何かあったら、絶対許さないから!』
藤原浩史は胸元を押さえるようにして、嘲る。
「それが新しい手か?」
鼻で笑い、言葉をねじ曲げる。
「失踪を利用して、俺に結婚を迫る? ……は。どこまで卑しいんだよ」
視界が滲む。
藤原浩史の輪郭が、ぼやけていく。
その瞬間――本当に、心が死んだ。
……
事件の一週間前の夜。
外は土砂降りで、雷鳴が空を裂いていた。
藤原浩史は私をベッドに押さえつけ、氷みたいに冷たい目で見下ろした。そこにあるのは、脅しだけ。
「本川西子。何度も俺を誘ってきたのは、触ってほしかったからだろ」
唇が歪む。
「どんだけ安いんだよ。そんなに男が足りないのか?」
「違う……」
声が震える。
「藤原浩史、私たちには婚約があるでしょう。あなたが、約束を――」
言い終える前に、遮られた。
顎を掴まれ、乱暴に口づけられる。
そこに愛なんて欠片もない。ただ、吐き出すみたいな欲だけ。
「ほら。これが欲しかったんだろ?」
耳元で、嘲る声。
「何を今さら、被害者ぶってんだよ」
「浩史……お願い……お腹が、痛い……」
泣きながら縋っても、彼は止まらなかった。
腰を掴まれ、ぐいぐいと容赦なく押しつけられる。
一度、また一度。力任せに。
まるで、私を壊したいみたいに。
その瞬間、思った。
この人は――私の命ごと、奪うつもりなんじゃないかって。
「本川西子。お前が恵美を階段から突き落とした件、まだ清算してない」
藤原浩史の声は冷え切っていた。
「死にかけたんだぞ」
「違う……私じゃない……!」
「警察に突き出して牢に入れなかっただけでも、温情だと思え」
言葉が、釘みたいに刺さる。
「余計な真似はするな。俺に娶らせたい? そんな夢、今すぐ捨てろ」
最後には、喉が潰れて声が出なくなった。
違う。
私じゃない。
私は、恵美を突き落としてなんかいない。
暗い赤が、脚の間から溢れてくる。
腹の奥がねじれるように痛い。息が詰まり、視界が白くなる。
「浩史……痛い……お願い……病院に……」
そのとき、明らかにおかしいと分かった。
「……最悪だな」
藤原浩史は露骨に顔をしかめ、私を投げ捨てるように離した。
服を掴んで立ち上がり、渋々といった様子で病院へ連れて行こうとする。
――その瞬間、電話が鳴った。
「浩史! 浩史……助けて!」
受話口から、怯えた女の声が飛び込んでくる。
「私、あの変態の連続殺人犯に目をつけられたかもしれないの! お願い、来て!」
藤原浩史の顔色が変わった。
青ざめ、慌てて服を掴むと、そのまま駆け出していく。
白野恵美のことが心配でたまらないのだ。
私の生死なんて、視界にも入らない。
私は痛みに耐えきれず、ベッドから転げ落ちた。
床の上で丸まり、震えながら声を絞り出す。
「助けて……藤原浩史……」
「行かないで……お願い……」
