第3章

あの日、私は痛みに生きたまま気を失った。

事件の六日前。目を覚ましたときには、もう外は明るかった。

雨上がりの陽射しはやけに眩しくて。私はもがくように床から起き上がる。脚の間に残った血は、すでに乾いていた。

「浩史、怖い……どうしよう、どうしよう……」

リビングから聞こえてきたのは、白野恵美の泣き声だった。身体を小刻みに震わせながら、殺人犯に目をつけられた、と訴えている。

――死ぬのが怖いのだ。

「浩史、監視カメラを確認しましたけど、白野恵美さん、確かに誰かに狙われてます。警察に通報しますか?」

「だめ……浩史、通報しないで。あの殺人犯、手口が残忍で、若い女ばかり狙うの。もう六人も遺体が見つかってるのに捕まってないんだよ? 下手に刺激したら……」

恵美は怯えきったまま首を振り、通報を頑なに拒んだ。

「恵美、怖がらなくていい」

藤原浩史は恵美を抱きしめ、やわらかな声で宥める。

彼は優しくなれない人じゃない。ただ――その優しさが、私に向けられたことは一度もない。

私はその場に立ち尽くした。気まずいのに、身体が固まって動けない。行くべきか、残るべきか、どちらにも振り切れない。

「白野恵美さん、昨日、路地を通ったときの服って何でした?」

浩史の親友、羽田澤矢がふと尋ねた。

「赤いワンピース」

そう答えた恵美が、ちらりと私を見る。

「西子……」

私は何も返せず、視線を逸らした。震える脚を引きずるようにキッチンへ向かう。何か口に入れないと、立っていられそうになかった。

「浩史、方法がある。殺人犯をおびき出して、捕まえてから通報すればいい。失敗して逆恨みされて、白野恵美さんに報復されたら最悪だろ? そのほうが確実だ」

澤矢が浩史を見据える。

浩史は短く頷いた。

「言ってみろ」

「女を一人用意して、白野恵美さんのワンピースを着せる。深夜に路地へ行かせて、犯人を引きずり出す。周りはカメラだらけだし、こっちも見張ってれば事故は起きない」

澤矢の視線が、浩史に貼りつく。

浩史は眉を寄せた。

「最悪の案だな。お前の彼女に行かせる気か?」

その瞬間、恵美の視線がまた私に落ちた。小さく、気遣うような声。

「西子、顔色悪いよ。大丈夫?」

私は答えない。蛇口をひねり、湯を出す。カップを満たそうとして――。

「こいつのことなんか気にするな。お前を殺しかけたくせに。よく心配できるな」

浩史は恵美を抱く腕に力を込め、露骨に苛立ちを滲ませた。

湯を受ける手が、ぴたりと止まる。

胸の奥がずきりと痛んだかと思うと、その痛みが一気に全身へ広がっていった。

「行かせればいいだろ! ちょうどいるじゃん! 白野恵美さんを危ない目に遭わせたんだ、借りがある。償わせろよ!」

「そうそう。本川西子に行かせようぜ。本川西子と白野恵美さん、雰囲気ちょっと似てるし」

私は慌てて浩史を見た。拒否してくれる言葉を、彼の口から聞きたかった。

私が暗い場所を怖がることを、浩史は知っている。まして真夜中に、あんな人通りのない路地へ行けだなんて――。

浩史は一瞬だけ言葉を失い、それから氷みたいな目で私を見た。長い沈黙ののち、低く言い放つ。

「お前は恵美に借りがある。返せ」

たった一言で、私は底のない奈落へ突き落とされた気がした。

指先がひどく痺れる。熱湯で満たしたカップを支えきれず、手の甲に全部ぶちまけた。

焼けつくはずの熱さなのに、痛みがない。――いや、感じる余地がない。

十年。十年かけても、私はこの男の心を温められなかった。

なのに白野恵美は、いとも簡単にそれを手に入れる。

「……行かない」

私は拒んだ。命を賭けるなんて、できるはずがない。

「浩史、お願い……西子を追い詰めないで……」

恵美は目を潤ませる。

「西子が階段から私を突き落としたのも、わざとじゃ……」

「庇うな!」

浩史が突然怒鳴り、恵美がびくりと肩を跳ねた。

浩史は立ち上がり、私のほうへ歩いてくる。

私は恐怖で首を振った。

「藤原浩史、行かない!」

「お前に拒否権はない」

浩史の声は冷たく、決めてきたみたいに揺れない。

「こっちは見張りをつける。死なせない」

それは保証の形をした命令だった。

私は俯き、熱い涙が瞼の裏を焼くのを堪えた。

「恵美に返せ。それで、お前が更生したってことにしてやる。今後はお前を敵視しない」

声を落とし、甘い餌をぶら下げる。

――それでも私は、信じかけてしまった。

「本当に……私の安全、守ってくれるの?」

「当たり前だろ」

浩史は露骨に不機嫌そうに吐き捨てる。

「藤原浩史……私は白野恵美に借りなんてない。犯人を捕まえたら、ひとつだけ、お願いを聞いてくれる?」

駆け引きがしたいわけじゃない。ただ、伝えたいことがあった。

「調子に乗るな」

浩史の顔が一瞬で険しくなる。

私は黙り込んだ。

藤原家では、私は居候みたいなものだ。彼を愛している。だからこそ、怖い。

「……分かった。行く」

私は頷いた。

「当時、あなたが私を助けてくれた。その恩を、これで返す」

私は自分の命を、藤原浩史に預けた。

この件が終わったら、私は自分から婚約解消を申し出る。彼を自由にするために。

そして国外へ出る。二度と藤原家には戻らない――。

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