第4章
「西子、ありがとう。まさか、あなたがそこまで勇敢だなんて」
白野恵美は白々しくそう言って、私の両手をぎゅっと握ってきた。笑みを浮かべているくせに、目だけが冷たくて――脅しみたいに光っている。
私はその手を振りほどき、空っぽの胃を抱えたまま藤原家を出た。
本当は、あの時点で諦めるべきだったのだ。
病院。
「妊娠してますね。もう2か月。ご本人、気づきませんでした? しばらく様子を見ましょう」
椅子に座ったまま、私は検査結果から目が離せなかった。指先が震え、全身が小刻みに揺れる。
妊娠――。
よりにもよって、こんな時に。
藤原浩史は私を愛していない。なら、私の腹の中の子どもなんて、なおさら受け入れるはずがない。
妊娠したからって、彼の気持ちが変わることはない。むしろ、私が手段を使って結婚を迫っていると決めつけるだけだ。
事件の五日前。
私は腹をくくって、妊娠のことを藤原浩史に伝えようと決めた。
もし彼が望まないなら、堕ろして、それから出ていく。
二度と、しがみついたりしない。
「プー……プー……プー……」
何度かけても出ない。何十回目かの呼び出しで、ようやく繋がった。
けれど、出たのは白野恵美だった。
「西子? 浩史に用? 疲れてるの。休ませてあげて」
その向こうで、藤原浩史の苛立った声が重なる。
「こいつにいちいち説明すんな。うるさいって言っとけ」
続いて、白野恵美のくすくす笑い。
「浩史、やめて。今日、あたし生理なんだから。触っちゃダメ」
私はスマホを握ったまま、ソファに座り込んだ。感覚が抜け落ちたみたいに、体が固まって動かない。
その夜。
藤原浩史は帰ってきた。しかも、白野恵美を連れて。
「どうして、その子まで連れてくるの」
藤原叔母さんが眉をひそめ、露骨に不機嫌になる。
「母さん。俺と恵美、婚約する。報告しに来ただけだ」
藤原浩史の声には、拒む余地なんて一欠片もなかった。
藤原叔母さんは目を見開き、反射的に私を見る。
私は目の奥が熱くなったけれど、何も言えなかった。
「私は反対よ。あなたと西子には先に婚約が――」
叔母さんが続けようとした、その言葉を藤原浩史が遮る。
「恵美は、あの殺人犯に目をつけられてる。あいつは独身で未婚の女ばかり狙う。だから俺たちの婚約は公にする」
白野恵美への偏愛は、もう隠す気すらないほど露骨だった。
胃の中がぐらりと波打つ。私は勢いよく立ち上がり、洗面所へ駆け込んだ。
吐いて、吐いて、喉の奥が焼けるほど吐いた。
私は――何なんだろう。
十八の時のことが、脳裏に蘇る。
両親が事故に遭って、私も潰れた車体に挟まれていた。車は燃え始めていて、いつ爆発してもおかしくなかった。
藤原浩史は、正気を失ったみたいに駆けつけた。必死に窓ガラスを叩き割り、手のひらを血だらけにしながらシートベルトを切り裂いて、私を引きずり出した。抱きかかえて安全な場所へ運び――それからまた、命知らずに両親を助けに戻った。
「藤原浩史……危ない……!」
掠れた声で呼ぶことしかできず、私は遠くから見ていた。彼が何もかも投げ捨てて、私たち家族を救おうとする姿を。
両親が引き出された、その瞬間――車が爆発した。
轟音と炎の塊。衝撃が胸を叩き、心臓が凍りついた。
結局、両親は助からなかった。それでも、藤原浩史が必死に人を救っていた姿は、焼き印みたいに私の奥に残っている。
彼はいい人だ。ずっとそうだった。
ただ――私を愛していない、それだけ。
吐くものが何もなくなって、視界が暗くなった。足がもつれて、そのまま床に崩れ落ちる。
藤原浩史は、白野恵美と結婚する。
そして私は、最初から最後まで――笑い話。
「西子、大丈夫だ。西子……」
「西子……」
事故現場でも、彼は何度も私の名前を呼んだ。持ちこたえろ、救急車が来る、と。
あの時、私は勘違いした。
彼も私を好きなんだって。
勘違いのまま、何年も生きてきた。
「本川西子、また死んだフリかよ」
洗面所の扉がドンッと蹴り開けられる。藤原浩史が不機嫌そうに私を見下ろした。
「明日の夜、お前は西区巷へ行け。こっちは全部段取りつけてる。くだらねえ小細工すんな」
「藤原浩史……私が死んでも、平気なの?」
掠れた声で尋ねると、彼は眉を寄せた。
「本川西子、お前みたいなのは命が硬いんだよ。お前がちょうどいい。あの殺人犯とお似合いだろ。俺にしがみつく根性で、そっちにしがみつけ。社会の役に立てるかもしれねえぞ」
「私が死んだら……悲しい?」
喉が痛くて、声が割れる。
藤原浩史は眉間に皺を刻んだ。
「お前が死ぬわけねえだろ。その質問は、死んでから聞け」
