第5章
事件の四日前の夜。
私は真っ赤なワンピースを着せられ、路地裏に立たされて、ぶるぶると震えていた。
「もっと自然に」
耳元のイヤモニから、藤原浩史の声が落ちてくる。
路地の奥から入口まで、行ったり来たり。何往復しても、怪しい人影はひとつもない。
「浩史くん、あの殺人鬼、あの子のことタイプじゃないんじゃない?」
「ははは。殺人鬼にすら相手にされないだろ」
イヤモニの向こうで、藤原浩史の取り巻きが笑い転げる声がした。
目の奥が熱くなって、私はその場にしゃがみ込む。ほんの一瞬、声を上げて泣きたくなった。
その夜、私は犯人をおびき出せなかった。
これで解放される――そう思ったのに、違った。
事件の三日前の夜も、また西区の路地を歩かされた。
結果は同じ。連中が欲しがっている相手は、影すら見せない。
事件の二日前、白野恵美が私を呼び止めた。
「西子、ごめんね。私、勘違いしてたみたい。西区じゃなくて、東区の路地で尾けられたんだった。浩史が、今夜は仕事終わったらそこに行けって。私たち、先に潜んでおくから。何かあったら叫んで」
私は信じた。仕事を終えると、そのまま東区の路地へ向かった。
――今度は、本当に誰かが私を尾けていた。
「ねえ……誰かいる? うしろ、誰かいる気がする」
怖くて、喉がひゅっと縮む。イヤモニに向かって必死に呼びかけた。
「誰か……!」
返ってきたのは、ふざけて騒ぐ声ばかり。私の言葉を拾う気配はない。
おかしい。
そう思って、私は藤原浩史に何度も電話をかけた。
繋がった瞬間、彼は苛立ちを隠しもしない声で怒鳴った。
「本川西子、いい加減にしろよ。しつこいんだよ。死ねば?」
息が止まりそうになる。
「昨日、恵美に会いに行って、婚約があるとか言って、俺から離れろって迫ったのはお前だろ? 言っとくけど、恵美に何かあったら――お前、ただじゃ済まないからな」
私は足を止めた。怖くて、でも、違うと説明したくて。
その瞬間。
背後から伸びた手が、私の口と鼻を一気に塞いだ。
携帯が指の間からすべり落ちる。じたばたともがいても、腕の力が強すぎてどうにもならない。
視界がぐらりと揺れて――すぐに、意識が闇へ沈んだ。
……
事件当日。
重たい眠りの底から引き上げられるように目を開けると、私は大きな木箱の中に押し込められていた。割れ物の陶磁器を運ぶような箱で、板の隙間から外が覗ける。
起き上がろうとして、息を呑む。
外から、背の高い男が入ってきた。フード付きのパーカー。足音がやけに静かで、空気が冷える。
そして――その顔が見えた。
肌は白い。髪は長く、乱れていて、半分は前髪に隠れている。それでも、思ってしまった。目を奪われる、と。
殺人犯にそんな言葉を当てるのは間違っているのに。
男の瞳は、淡い青だった。
彫りの深い顔立ち。黒い髪に、病的なまでに白い肌。混血だと一目で分かるほど、異様に目立つ。
全身から、死の匂いが滲んでいる。
私は声を殺した。呼吸すら、怖い。
男は何かを探しているらしく、きょろきょろと部屋を見回し、隅から斧を拾い上げると、ずるりと引きずって出ていった。
私は口元を押さえ、そっと木箱から這い出す。音を立てないように、必死で外へ――。
けれど、数歩も行かないうちに、背後から殴られた。
がん、と頭の奥が鳴って、床に叩きつけられる。
意識が落ちる直前、視界に入ったのは、さっきの斧と――男の手。
「君は、俺が見た中でいちばん完璧な芸術品だ」
掠れた声だった。焼けた喉みたいに、壊れた音。
「君はあいつらとは違う。永遠に保存してやる……誰にも見つけさせない。君はずっと俺のものだ。ずっと、俺のそばにいろ」
狂ってる。異常だ。変態だ。
意識が薄れていく。血が抜けていく感覚だけが、妙に静かで。
そして、心臓が止まった。
――死ぬ前って、こんなに穏やかなんだ。
……
藤原浩史の住まい。
私の魂は、藤原浩史の背中に吸い寄せられるみたいについていき、彼の家へ戻った。
彼は藤原家の本宅にはほとんど帰らない。たいてい、ひとりでここに住んでいる。
私は何度も、ここを見てみたいと思っていた。いつか結婚したら、ここが私たちの家になるんだと信じて。
憧れていた場所だった。
玄関を開けた途端、白野恵美が駆け寄ってきて、藤原浩史に抱きついた。
「浩史、西子は見つかったの?」
パジャマ姿。ここで長く暮らしているのが一目で分かる。
藤原浩史は白野恵美を抱き返し、優しい声で宥める。
「さあな。どうせまた、何かくだらない小細工でもしてるんだろ」
私は鼻で笑い、部屋の内装を見回した。
――そうか。
ここは、私のための「未来の家」なんかじゃない。
藤原浩史と白野恵美の、夫婦の部屋だった。
彼はとっくに、白野恵美を隠して囲っていた。ここで同棲していたのだ。
