第6章
「浩史……西子は、あなたに私と結婚してほしくないって……」
白野恵美が泣きながら言った。
「気にするな。婚約は婚約だ。どうせ打つ手がなくなりゃ、勝手に戻ってくる」
藤原浩史はそう言い切った。――私がわざと失踪して、こいつらの婚約パーティーをぶち壊そうとしている。そう信じている顔。
彼は人前で、これでもかというほど盛大に婚約を発表したがった。
私がもう何も変えられないと悟れば、執着もやめるだろう。そう踏んで。
けれど、彼は知らない。
私はもう、とっくに彼を手放している。
もし生きていたなら、今ごろH市を発つ飛行機に乗っていたはずだ。
「浩史……どうして西子は私のこと嫌いなの? 前は私を階段から突き落として、死にかけたのに……今度はこんなやり方で、私たちの婚約式を壊そうとして……おばさんが知ったら、きっと許してくれないよ……」
白野恵美は涙声で訴える。
藤原浩史の顔色がさらに悪くなった。
「母さんを言いくるめる小細工以外、あいつに何ができるってんだ」
私は鼻で笑った。もう弁解する気力すら湧かない。
どうせ、何を言っても届かない。
生きていたときですら、彼は私の言葉を聞かなかった。
まして今の私は――死んでいる。
……。
藤原浩史と白野恵美が寝室へ入っていく。
私はみじめにソファへ沈み込んだ。
部屋の奥から、時おり弾んだ笑い声が漏れてくる。
耳障りな刃物みたいに、私の魂をざくざくと切り裂いた。
視線を落とす。自分の腹のあたり。
魂そのものが、ぶるぶる震えているのがわかった。
まだ形にもなっていない子――。
その子まで、私と一緒に消えてしまった。
藤原浩史が、私が死んだことを知って、しかも彼の子を身ごもっていたと知ったら。
夢の中でも笑って目を覚ますだろうか。
厄介事が、誰かの手で片づいたのだから。
「ブブッ」
午前3時。藤原浩史のスマホが震えた。
「……もしもし?」
苛立ちを隠さない声。
「藤原さん。河川敷の側溝で、頭部のない女性遺体が見つかりました。手首のブレスレットが、あなたの妹さん――本川西子さんのものと確認できています。ご遺体の確認に来てください」
藤原浩史は跳ね起きた。息が荒くなる。
窓の外は稲妻と雷鳴。
その瞬間、藤原浩史はこめかみを押さえ、顔をしかめた。頭痛が走ったらしい。
「……西子?」
稲妻が落ちた刹那、彼の視線がふっとリビングへ向く。
そこに人影が見えた――そんな顔をした。
本川西子に、よく似た影。
私は呆然と藤原浩史を見た。
見えているの? 私が?
けれど次の瞬間、藤原浩史は舌打ちして、上着を掴み、出ていく支度を始めた。
ベッドでは白野恵美も目を覚まし、裸足のまま出てくる。
そして、誰に聞かせるでもなく、甘ったるい声で吐き捨てた。
「本川西子。恨むなら私じゃなくて、藤原浩史を恨んでよ。あんなに優秀な男、欲しくならない女なんている? それにしても、あなたってほんと馬鹿。私の言うこと信じたんだもんね。はは……死んだのも自業自得!」
私は理性が切れた。
白野恵美へ飛びかかり、喉を掴もうとして泣き叫ぶ。
「あなたが私を殺した! あなたよ! 殺してやる、殺してやる!」
全身の力を振り絞って、この女を殺したいのに――。
指先が、すり抜ける。触れられない。
復讐できない。
何ひとつ、できない。
……。
刑警隊。
「被害者は生前、性暴力を受けています。着衣も本人のものではありません」
淡々とした報告が落ちる。
藤原浩史は解剖台のそばで立ち尽くし、全身が石みたいに硬直していた。
「そのブレスレットは……二か月前に、本川西子が自分で失くしたんだ」
「本当に、そのブレスレットで間違いないですか」
刑事が確認する。
「……ああ。祖母の形見だ」
藤原家の「未来の嫁」に渡すはずのもの。
本川西子が十八になった年、彼が彼女に贈った。
藤原浩史は長い沈黙の末、喉の奥から絞り出すように言った。
「本川西子は……右胸に、ほくろがある。恥骨の左側に……赤いあざがある」
彼は警察に、私は妹だと言った。
けれど兄が、そんな場所の痣まで知っているはずがない。
刑事たちは一瞬固まり、互いに目配せする。
法医に確認を促した。
「……今の特徴が正しければ、この遺体は本川西子さんのものではありません」
藤原浩史は、ゆっくり目を閉じた。
明らかに、肩の力が抜ける。
「藤原浩史さん。あなたは、私たちに隠していることが多いようですね」
担当刑事が眉をひそめ、藤原浩史を外へ促した。
「あなたと本川西子は――いったい、どういう関係ですか」
