第3章

富士山登頂から帰ってきてから、私の体調は急激に悪化した。

高山病と旅の疲れで丸一ヶ月も休むことになり、その間、化学療法も一度受けた。化学療法はいつも、音のない戦争のようだった。医者は癌細胞を殺していると言うけれど、私には自分の身体ごと殺されているようにしか感じられない。

「前回よりもベッドから起き上がるのが辛くなったかな。身体が、あんまり言うこと聞いてくれないみたい」

私はカメラに向かって微笑み、まるで天気の話でもするかのような軽い口調で言った。

玲子が熱いお茶を差し出しながら、おずおずと尋ねてくる。

「明日さん、本当に撮影を続けますか? もう少し体調が良くなってからでも……」

ティーカップを受け取り、磁器越しに伝わる温もりを掌で感じながら、私は答えた。

「大丈夫。どうせ、最後の時間なんだから」

玲子の目は、たちまち潤んだ。

彼女が私を心配しているのは分かっている。でも私には、残された時間のほうがもっと心配だった。

今日、私が選んだのはショートヘアのウィッグ。ブレイクのきっかけになった青春ドラマ『明日、君を覚えていますか』の時の髪型だ。

それを見た玲子の目が輝いた。

「宮本千夏を演じていた時の髪型ですね!」

「癌患者の特権。自由に髪型を変えられるの。クールでしょ?」

私は笑いながらウィッグをそっと撫でた。

「これは私のアシスタントがくれたものなの。彼女、自腹で銀座から高級ウィッグを十個も買ってきて、『頑張ってください』ってプレゼントしてくれたの。復帰の準備のためだって」

玲子が気遣わしげに尋ねる。

「彼女は、明日さんの病気のことを?」

「私がこれをやっていることは知らない」

私は少し姿勢を正した。

「芸能事務所には、不倫スキャンダルと鬱で休養が必要だから引退するって伝えてある。でもね、彼女はこう言ってくれたの。『事務所にとってどれだけ稼げるかなんてどうでもいい。ただ、あなたが健康で生きていてくれさえすればいいんです』って」

彼女はきっと、何かを察してはいるのだろう。それでも、あえて気づかないふりをしてくれているのだと思う。

少し間を置いて、私は続けた。

「高橋崇之とは、もう離婚手続きを済ませたわ。両親は……私がまだ新しい役作りをしていると思ってる」

「では、今日は『七つの約束』の二つ目ですね」

私はカメラを見つめ、真剣な表情になった。

「みんなに私をもう一度知ってほしい。そして、私自身も過去の道を辿り直したいの」

私たちの最初の目的地は、県立第一小学校だった。

シンプルなパーカーにジーンズ、マスクと帽子という格好をしていたけれど、そんな変装は必要なかったのかもしれない。道行く人は私に目もくれず、ごく普通の女の子が、かつての人気女優・星野明日だとは誰も思いもしなかった。

私たちは校門の外に立ち、遠くでグラウンドを駆け回る子供たちを眺めていた。

「あの桜の木、見える?」

私はグラウンドの隅にある大きな桜の木を指差した。

「昔、あの木に登って桜の花を摘んでたら、降りられなくなって半日泣いてたの」

そう言って、私は思わず笑ってしまった。

玲子も笑う。

「明日さんにそんな時があったなんて、想像もつきません」

「今の学校は警備が厳しいから、子供たちの邪魔はしないでおきましょう」

私は玲子の手を引いて、校門には近づかずにその場を離れた。

次に、かつて住んでいた古い町並みに向かったが、そこはすっかり様変わりしていた。

「あぁ、ここ、全部新しい商店街になっちゃってる……」

風の中に立ち、私は驚きと喪失感に襲われた。

おかしな話だ。この場所を離れたのは私なのに、今ではまるで、この場所に裏切られたような気分だった。

「ここには昔、小さな和菓子屋さんがあって、放課後になるたびに豆大福を一つ買ってたの」

私は記憶を頼りに説明する。

「メディアはいつも私のことを『お嬢様』みたいに言うけど、実家はごく普通。父はただのサラリーマンだったし」

私は通りの角を指差した。

「あそこには柴犬を飼っているお婆さんが住んでた。一度、下校中にその家の柴犬に追いかけられて噛まれたことがあって。その時着てた綿入れのジャンパーに穴が開いて、中の綿が飛び出しちゃったの。幸い、肉まではいかなかったけどね」

玲子がそっと尋ねる。

「明日さん、大丈夫ですか?」

私は首を横に振った。少し、ぼんやりとしていた。

「なんだか、すごく知らない場所みたい。この思い出は、私の頭の中にしか存在しないんだなって」

空がだんだんと暗くなり、私は腕時計を見た。

「私の高校、この近くなの。歩いて二十分くらいかな」

休憩は必要かと尋ねる玲子に、私は首を振って断った。

「大丈夫、まだ歩ける」

そして、意味深に付け加えた。

「そこは、私が高橋崇之と出会った場所でもあるの。あの頃の私たち、有名な犬猿の仲だったんだから」

風がウィッグの縁をめくり上げ、私は無意識にそれを押さえた。その瞬間、ふと気づいた。私は過去の自分を探しているだけじゃない。病と嘘に蝕まれる前の、あの世界をも探しているのだと。

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