第2章

真理奈の視点

 あたりは闇一色。密閉された空間に、せき込むみたいな私の呼吸だけが跳ね返ってくる。口を開けて吸おうとしても、肺に空気が入ってこない気がした。

 三年前。治験のあと、係の人に「身体検査です」と言われ、小さな部屋へ連れていかれた。扉が閉まった瞬間、それは二度と開かなかった。中で丸二日。飢えで胃がけいれんし、ここで死ぬんだと本気で思った。それ以来、暗闇と狭い場所だけは、どうしても耐えられない。

「出して!」

 鉄の扉を狂ったように叩く。

「海人! お願い!」

 掌はすぐに痺れ、喉は裂けたみたいに痛い。それでも、外からは何の返事もない。

 どれほど経ったのか。ようやく扉が開いた。私は這うように飛び出し、海人のズボンの裾にしがみつく。

「お願い……もう閉じ込めないで。あのとき、薬工場の小部屋に二日も――」

 海人は見下ろしてくる。瞳に揺れは一片もなかった。

「芝居はもういいだろ。おまえがこの五年で経験したこと――雇い主も仕事も、全部俺が選んで手配した。あいつらは俺の代わりにおまえを教育してただけだ。謙虚さと感謝を覚えさせるためにな。ほんとに傷つけるわけない」

 言葉が、頭の中で凍りついた。

 献血所で、看護師がわざと針を何度も刺しては抜いた光景。レストランの厨房で、誰もいない隙に料理長の手が私の身体を這ったこと――

「……あれも、全部……?」

 海人は当然のように頷く。

「そうだ。俺が磨いてやらなきゃ、おまえがこの家に戻る資格なんてあるか? 感謝しろよ」

 感謝? 笑ってやりたかった。でも、もう笑えなかった。

「それと、今夜は由香子の誕生日だ」

 海人が淡々と言う。

「ヨットでパーティーする。おまえも来い。客の前で言え。由香子が人さらいの娘なんかじゃないって」

 保志が近づいてきた。

「いい子にして、ちゃんと協力すれば……また家族でいられる。おまえ、ずっと結婚式がしたいって言ってたよな。盛大なのをしてやる」

――何を、今さら。

 私は目を閉じ、瞼の裏に渦巻く憎しみを押し込めた。

「……わかった。行く」

***

 ヨットの上。招待客たちはイブニングドレスに身を包み、シャンパンを片手に笑いさざめく。私は隅に立ち尽くしていた。くたびれた服、やつれた顔。きらびやかな輪の中で、私だけが浮いている。

 視線が刺さり、ひそひそ声が飛ぶ。

「誰?」

「汚い……」

「なんであんなのが乗ってるの?」

 舞台裏で、お母さんが私の肩をつかみ、一語一語、噛みしめるように言った。

「あとで壇上に出たら言うのよ。あのときは誘拐じゃなくて、あなたが勝手に迷子になっただけ。由香子のお母さまが親切に保護してくださった。あなたの恩人だって」

 お父さんが横から付け足す。

「それから、家に戻ってからずっと由香子に嫉妬して、いじめていたとも言え。この数年は反省している、と。いいな?」

 お母さんが乱暴に私の肩を揺さぶる。

「聞いてるの!?」

 そのとき、扉が開いて海人が入ってきた。

「出番だ。由香子が待ってる」

 背中を押され、私はステージへ上げられた。甲板に並ぶ数十の視線。好奇、値踏み、そして蔑み。由香子は最前列に立っていた。白いロングドレス。無垢な姫君みたいに。

 さっきのお母さんの台詞が、脳内で反響する。口を開いたのに――言えない。どうしても、言葉が出てこない。

「どうして……? どうして、居場所を奪った人に謝らなきゃいけないの?」

 マイクが私の声を増幅し、甲板中へ響き渡った。

「十何年も私の人生を奪って、まだ足りないの? どうして今さら、私の夫まで、私の子どもまで奪うの!」

 どっと悲鳴みたいなどよめきが起こる。

 由香子の顔から血の気が引いた。次の瞬間、両手で顔を覆って泣き出す。守ってあげたくなるほど健気な顔――まるで自分こそ被害者だと言わんばかりに。

 保志がすぐに寄り添い、支える。そして私を振り向いた瞳は怒りで燃えていた。

「もういい、真理奈! なんでそんなことが言えるんだ!」

 海人が壇上に駆け上がり、客に向けて頭を下げる。

「皆さま、本当に申し訳ございません。妹は昔から精神が不安定で……重い妄想癖がありまして。今の発言は事実ではありません」

「妄想なんかじゃない!」

 叫ぶように言った。

「だったら聞いてみてよ! 由香子に――彼女が、言えるかどうか……!」

 言い終える前に、保志が遮った。由香子を抱き寄せたまま、彼女の手から赤い小さな冊子を取り上げ、客席へ高く掲げる。

「これは、俺と由香子の婚姻届受理証明だ。俺たちは法的に夫婦だ」

 保志の声は氷みたいに冷たかった。

「真理奈はずっと俺につきまとってきたが、妻だったことは一度もない。人の家庭を壊そうとしてるのは、こっちのほうだ」

 頭の中で、どん、と何かが破裂した。

 だから。だから、私が結婚証明を見たいと言うたび、あの人は言い訳ばかりしたんだ。最初から最後まで――私は、妻ですらなかった。

 身体の奥から血が冷えていく。硬直したまま、保志を見つめた。

 保志は私の目を避け、言葉を続ける。

「荒唐無稽に聞こえるだろう。でも事実だ。真理奈は幼いころ家で育っていない。戻ってきてからも、この家に馴染めず、由香子に嫉妬して……現実離れした幻想を抱くようになった」

 周囲が一斉にささやき始める。

「精神病か」

「だからあんな格好で平気なんだ」

「こんなのがうちの界隈に入れるわけない」

「由香子さん、かわいそう……」

 蔑みの視線が刃みたいに突き刺さる。私はそこに立っているだけで、服を剥がされ見世物にされている気分だった。

 そのとき、小さな男の子が人波をかき分けて飛び出してきた。由香子の横に駆け寄り、私を指さして怒鳴る。

「悪い女! ママをいじめるな!」

 一目でわかった。私の息子、聡だ。――なのに、彼は由香子を「ママ」と呼んだ。

 全身が震えた。反射的に近づこうとする。けれど聡は後ずさりし、由香子の背中に隠れた。私を見る目は恐怖と嫌悪でいっぱいで、まるで化け物でも見るみたいだった。

 海人が寄ってきて、私の腕を乱暴につかむ。

「夢見るのも大概にしろ。由香子はおまえと違って、何も持ってない。子どもだけは、あいつから奪わせない」

 喉が震えて、声が掠れる。

「でも……あの子は、私の……」

「俺のスマホに動画がある」

 海人の声が低く落ち、私にしか聞こえない。

「俺も、誰かに撮らせた偽物だってことは分かってる。でもさ――保志と聡が見たら、信じると思わないか? 聡が、あんな母親を欲しがると思うか?」

前のチャプター
次のチャプター