私が死んで、やっと私が見えるようになったでしょ

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渡り雨 · 完結 · 18.3k 文字

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紹介

末期肺がんの宣告を受けた日、私はようやく血を売る生活に終止符を打つことができた。

この5年間、私はずっと贖罪をしているのだと思っていた。両親と息子を死なせ、兄の体を不自由にさせたあの火事の罪を償うために。血を売り、危険な治験に参加し、底辺の泥水をすするような仕事をしてきた。永遠に終わることのない、本来なら私が背負う謂れのない借金を返すためだけに。

医者からは「もってあと数週間」だと言われた。私は診断書をポケットにねじ込み、家路についた。この事実を彼らに伝えるために。

ドアを押し開けた瞬間、私の目に飛び込んできたのは――死んだはずの両親がキッチンで料理をし、車椅子のはずの兄が両足で立ってグラスを掲げ、夫と談笑している光景だった。

兄は悪びれもせず肩をすくめた。「俺の足が動かないのは最初から嘘だよ。あの火事で大怪我をしたのはお前だけだ。俺たちはお前に痛い目を見せて、感謝の心を学ばせたかっただけさ」

「もう少し経ってから教えるつもりだったんだけどな」夫は私の肩をポンと叩いた。「由香子のところへ行って謝ってきなさい。これからはもう、彼女をいじめるんじゃないぞ」

「お前がこの数年で稼いだ金は、すべて由香子への援助に回させてもらった」父親が冷たく言い放つ。「血の繋がった本物の娘だからといって、由香子を目の敵にするお前が悪いんだ」

私はポケットの中の診断書をそっと撫でた。
そうか、何もかもが嘘だったのだ。

私にもうすぐ死が訪れるということ――それだけが、唯一の真実だった。

チャプター 1

 肺がんの末期だと確定したその日、ようやく――献血どころか、血を売る生活をやめられると思った。

 この五年間、私はずっと贖罪しているつもりだった。両親と息子を死なせ、兄を障害者にしてしまった――あの火事の償いを。

 血を売り、治験に参加し、いちばん卑しい仕事にも手を出した。返しても返しても終わらない、そもそも私のものでもない借金を、返すためだけに。

 医者は言った。残りは数週間だ、と。

 診断書を懐に押し込み、家に帰った。せめてこの事実だけは、あの人たちに伝えようと思って。

 ドアを押し開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、息が止まった。

 死んだはずの両親が台所で料理をしていた。

 足が不自由なはずの兄が、立ったままグラスを掲げ、夫と笑い合っている。

 兄は肩をすくめ、悪びれもせず言った。

「俺の足が折れたってのはずっと嘘。火事で重傷だったのはお前だけだよ。ちょっと思い知らせたかっただけ。感謝ってもんを覚えさせるためにな」

「本当は、もう少ししてから話すつもりだったんだけどな」

 夫が私の肩をぽん、と叩く。

「由香子に謝ってこい。これからはちゃんとやっていこう。もう、由香子をいじめるのはやめろ」

「お前が稼いだ金だって、由香子のために回してやった」

 父が淡々と言い放つ。

「真の娘だって立場を振りかざして、あの子に当たり散らしてた罰だ」

 私はポケットの診断書に指をかけた。

 ……全部、嘘。

 嘘じゃないのは、私がもうすぐ死ぬってことだけ。

***

 ほんの数分前まで、どうやって伝えようかと考えていた。

 いまは喉の奥に鉄臭い味がせり上がり、歯を食いしばって、吐き出すのを必死で堪えている。

「聞こえてるか?」

 黙り込んだ私に、夫の保志が近づいた。

「謝ってこいよ。俺たち、これからちゃんと暮らせる。子どもだって、また作れるんだ」

 思わず、笑いが漏れた。涙まで出てきて、止まらない。

「子どもを口にする資格が、あなたにあるの? あの火事、由香子のせいだったじゃない! 私の息子は……あの子に殺された!」

 保志は一瞬きょとんとして、それから額をぽんと叩いた。

「あー、そうだ。言い忘れてた。火事も嘘。あれは俺たちが仕組んだ。家の中に誰もいなかったのに、お前だけが間抜けみたいに飛び込んだんだよ」

 胸の奥が、ぐにゃりと潰れる。

「聡は死んでない。由香子にやって育てさせてる。お前みたいに聞き分けのないやつに、子どもを育てさせたらダメだろ」

 身体が、その場で凍りついた。

 脳裏に、あの夜が蘇る。

 悲鳴で目が覚めて、階段を駆け下りると、1階から黒煙が噴き上がっていた。私は狂ったように火の中へ飛び込み、父と母の名前を叫んだ。生まれたばかりの聡の名も叫びながら。

 煙で視界は真っ白だった。ただ、倒れる直前まで、聡の部屋へ這うように進んでいたことだけ覚えている。

 目を覚ましたとき、医者は「吸い込みによる損傷が深刻で、肺が広範囲に焼けている」と言った。

 保志は目を赤くして告げた。両親は死んだ。聡も死んだ。兄の海人は足を折った。全部、私のせいだ、と。

 私がその夜、由香子と喧嘩して彼女を怒らせ家出させたから、海人が追いかけて外に出た。だから火事のとき、みんな家にいた――そう言われた。

 私は、私のものじゃない罪を、五年も背負わされた。

 血を売り、治験に参加し、飲食店の裏で皿を洗って指が裂けるまで働いた。汚い仕事も重い仕事も、なんだってやった。あの「借り」を返すためだけに。

 それが――全部、嘘だなんて。

「どうして……」

 声が震えて、言葉にならない。

「どうして、そんなことを……?」

 海人は眉をひそめ、心底理解できないという顔で吐き捨てた。

「長い目で見りゃ、お前のためだろ。懲りさせるためだ」

 海人が歩み寄り、見下ろしてくる。

「お前は小さい頃、家にいなかったせいで、変な癖がついた。迎えに戻したのだって、ちゃんと生き直させるためだったのに、由香子に突っかかってばかりで、あの子を傷つけた。感謝して、身の程を知って、当たり前のことを学ばせたかっただけだ」

「由香子だって被害者なんだよ。あの子は何も悪くない。無関係なのに、なんでお前の悪意を受けなきゃいけない?」

「正しいだろ?」

 保志も口を挟む。

「こうでもしなきゃ、お前、変われたのか?」

 無関係? 無垢?

 いったい誰のことを言ってる。

 頭の中に、映像みたいに次々と浮かぶ。

 狭い屋根裏部屋。冬は氷室みたいに冷える。養父の平手、養母の拳。

「食うな。うちの犬のほうが、お前より価値がある」

 その冷たい言葉が、何度も何度も、私に「生きる資格がない」と刻み込んだ。

 一方で由香子は――あの二人の本当の娘は、私の服を着て、私のベッドで眠り、私の両親に愛されていた。

 私は震える手で服をめくった。

 下腹部には火事のせいで歪んだ痕。腕にも背中にも、子どもの頃から消えない傷が残っている。

「無関係? 被害者?」

 私は彼らを睨みつけた。

「由香子は十何年も、私のはずだった暮らしを丸ごと享受してた。どこが無関係なの? あなたたち、言ったよね。あの人さらい夫婦に報いを受けさせるって。牢屋に入れるって。私が受けた苦しみを忘れないって。なのに……!」

「もういい」

 海人が苛立たしげに手を振って遮った。

「お前の養父母から聞いた。虐待なんてなかったってな。その傷は外で遊び歩いて作ったんだろ。嘘で同情引くのはやめろ」

 母も鼻で笑う。

「ほらね。あんなのに育てさせたら、こうなるのよ」

 父はうなずいた。

「最初の判断が早くて正解だったな」

 喉の奥から血の味がこみ上げ、息が熱くなる。

 私は彼らを睨んだまま、唇を噛んだ。

「私じゃ子どもを育てられない……? じゃあ、他人の巣に居座ったあの女なら、ちゃんと育てられるって言うの?」

 言い終える前に、海人の顔がすっと暗くなった。

「黙れ!」

 大股で迫り、私の腕を乱暴につかむ。指が食い込み、骨が軋むほど痛い。

「由香子がそれを聞いたら、どれだけ傷つくと思ってる。お前、この五年、何ひとつ学んでねえな」

 保志も冷えた声で立ち上がった。

「……心底、失望した」

 まだ何か言おうとした。その前に、海人が私を引きずって階段へ向かう。

「何するの! 放して!」

 抵抗しようとしても、身体が情けないほど弱っていた。

 海人は無言のまま、私を階段の下へ引きずり下ろす。

 地下室の扉が開いた。真っ黒な穴みたいな暗闇。むわっとしたカビの臭いが流れ出てくる。

「頭が冷えたら出てこい」

 海人は手を離し、私を突き飛ばした。

 よろめいて中に転げ込み、膝を床に強く打ちつける。

 ずしりと重い鉄の扉が、目の前で閉まった。

 最後に見えたのは、海人の――何も感じていないみたいな冷たい顔だった。

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