第3章

真理奈の視点

 海人がスマホを取り出した。画面に映ったものを見た瞬間、全身の血が引いた。

 三年前の、ある深夜。治験が終わって帰宅する途中、アパートまであと二つ先の路地で、私は何人かに引きずり込まれた。できたのは、海人に電話することだけ。映像の中の私は叫び、もがき、服を少しずつ引き裂かれていく。最後の最後まで、海人が助けに来てくれると信じて待っていた。

 でも——来なかった。

 喉の奥に鉄の味がこみ上げる。声が裂けそうだった。

「それ、本当なの! あたし、本当にあの人たちに……! あなた、迎えに来るって約束したじゃない——」

「もういい。演技はやめろ」

 海人が苛立ったように遮る。

「あいつらは俺が金で雇った役者だ。百回生まれ変わっても、お前に本気で手ぇ出せるわけないだろ。今さらそんなことして、俺らに罪悪感植え付けて、由香子を追い出したいんだろ? 真理奈、お前ってほんと、どんだけ彼女が気に食わないんだよ」

 胸が上下に大きく揺れた。——いったい、誰が誰を許せないっていうの。

 もういい。言い争う意味なんてない。すぐに、解放される。

 そのとき、誰かが私の髪をつかんだ。

「人んち壊すクズが!」

 最初の平手打ちが、容赦なく頬を打ち抜く。続けざまに、さっきの言い争いを聞いていた客たちが押し寄せてきた。

「浮気相手は死ね!」

「そのツラ、引き裂いてやる!」

 拳。平手。爪。ぜんぶが私に降り注ぐ。よろけて後ずさりした瞬間、口の端がぱっくり切れた。

 海人が眉を寄せ、こちらへ歩いてくる。

 由香子が突然、胸を押さえてふらつき、そのまま床に崩れ落ちた。

「お兄……めまい……ここ、うるさくて……息、できない……」

 お母さんが青ざめる。

「由香子! 早く、裏へ!」

 保志が私を一瞥し、それから顔面蒼白の由香子を見た。喉仏がごくりと動き、次の瞬間、由香子へ駆け寄っていく。

 海人も一瞬だけ迷った。だがすぐに由香子を抱き上げ、甲板から足早に消えた。

 誰も、振り返らない。

 女たちの暴力はさらに重くなる。

「殺せ! 浮気相手が一人減れば社会が少し浄化される!」

 痛みに耐えきれず、私は丸まる。肺が裂けるみたいで、息を吸うたびに刃物でえぐられる。口から、ぶわっと血が噴き出した。

 どれほど時間が経ったのか。ようやく人が散っていく。

 私は甲板に横たわり、夜空を見上げた。ゆっくり起き上がる。動くたびに、自分の骨を一本ずつ外しているようだった。

 裏へ向かった。なぜ向かったのか分からない。たぶん、ただの本能。

 扉を押し開けた瞬間、そこには「家族」の光景があった。

 お母さんが由香子の隣に座り、優しく声をかける。海人が水を差し出し、保志が彼女の前にしゃがみ込んで「大丈夫か?」と覗き込む。聡は由香子の胸に寄り添っていた。

 私が入った途端、お母さんの顔が沈む。

「よく入って来られたわね。そんな血まみれの姿、誰に見せたいの?」

 保志も苛立ちを隠さない。

「もう騒ぐなよ。お前が客の前でわざと由香子を貶めたから、俺だって結婚証明書を出したんだろ。自分で蒔いた種じゃん。今さら可哀想ぶって何になるんだ」

 全身が震えた。一歩踏み出すたび、刃の上を歩くみたいに痛い。

 私はただ、聡を見た。私の息子。由香子に抱かれた彼の目には、私への嫌悪だけが浮かんでいた。

 由香子が立ち上がり、私の前へ来て手をつかむ。振りほどけないように。

「真理奈、ケガしてる。見せて」

 顔を寄せ、声を落とした。

「そのバカ息子、もう飽きたんだよね。ねえ、今度は女の子産んでよ。新しいおもちゃが欲しいの。運が良ければさ、気分がよくなって、玩具みたいに壊す前に返してあげるかも」

 理性が、ぷつんと焼き切れた。手を上げる。

 由香子は即座に甲高く悲鳴を上げ、後ろへ倒れ込む。

 海人が飛び込んできて、私の頬を叩いた。片側の感覚が一瞬で消える。

「正気か? みんなの前で手を上げるとか!」

「ママをいじめるな!」

 聡が駆けてきて、力いっぱい私を突き飛ばした。

 もともと立っていられなかった。押されてよろめき、机の角にぶつかって床へ叩きつけられる。口から、また血が噴き出した。

 お父さんが手元のペットボトルをつかみ、私に投げつける。

「まだそんな戯言ほざく気か! 黙れ!」

 肩に当たり、視界が暗くなるほど痛かった。

 聡はその場に立ち尽くし、顔色を白くしながらも睨みつけてくる。

「何が言いたいんだよ。自分が俺の母親だって?」

 鼻で笑うように舌打ちした。

「仮にそうだとしても、死んだほうがマシだ。お前みたいなの、母親じゃない」

 床に横たわったまま、私は息をする。肺が裂けていく。

 海人が近づき、見下ろした。スマホの画面で、あの映像が音もなく流れている。

 声を潜める。

「今すぐ由香子に謝れ。それから、さっきステージで言った狂言は嘘でしたって動画撮ってネットに上げろ。できないなら——この動画、ばら撒く。世界中に、お前がどんな女か教えてやる」

 画面を見つめたまま、私は笑った。涙が勝手に落ちていくほど、可笑しかった。

 五年間の屈辱。さっき聡が吐き捨てた「死んだほうがマシ」。

 私は手を伸ばし、海人のスマホを受け取った。

 海人が目を見開く。

「お前——」

 震える指でSNSを開き、そのまま、あの暴行動画を投稿した。

 海人の顔が、瞬時に鉄色へ変わる。

「……お前、狂ってるだろ!?」

 奪い返そうと手を伸ばす。けれど遅い。投稿は、もう完了していた。

 私はスマホを返し、ゆっくり立ち上がる。そして一歩ずつ、ヨットの縁へ向かった。

 背後で、お母さんの慌てた声が響く。

「何する気!? やめなさい、ふざけないで!」

 保志も声を荒げる。

「もう追い詰めない! 何が欲しいんだ、話し合おう!」

 私は手すりをよじ登った。海風に煽られ、身体がぐらりと揺れる。

 海人が冷たく笑った。

「また騙されてる。こいつはさ、俺らが気にしてるのをいいことに、自殺で脅してるだけだ」

 私を見上げる。

「飛べるもんなら飛べよ。どうせ、できねぇだろ」

 手すりの上で、私は振り返った。目は空っぽで、どこか安らいでいた。

「五年分の命で償えって言うから、償った。子どもを寄こせって言うから、渡した」

 息を吐く。

「……今度は、この命で。自由を買う」

 次の瞬間、顔面蒼白でこちらへ飛びかかってくる彼らを見ながら、私は手を離し、身体を後ろへ倒した。

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