第4章

真理奈の視点

 身体がずしん、と冷たい海へ叩きつけられた瞬間、胸の奥で激痛が弾けた。肺が裂けるみたいで、息を吸おうとするたび、喉の奥に流れ込んでくるのは氷みたいな海水だけ。

 ……抵抗すらできない。

 肺がん末期の体はもともとボロボロだった。さっきの集団暴行で内臓までやられて、いま感じるのは窒息と沈んでいく感覚だけ。

 骨が折れる感触。意識が、白く滲んでいく。

 次の瞬間、ふっと軽くなった。

 私はもう、ヨットの甲板の上空に漂っていた。

 海人が欄干へ駆け寄り、身を乗り出そうとする。そこへ由香子が突然、彼の腕を掴んだ。

「お兄ちゃん、慌てないで! お姉ちゃん、泳げるもん。すっごく水に強いの。私たちを脅かしてるだけだよ」

 宙に浮いたまま、その言葉を聞いても、心は不思議なくらい凪いでいた。怒りも悲しみもない。ただ、少し可笑しかった。

 私は泳げない。

 幼いころ、養父母の家で浴槽に閉じ込められたことがある。水がじわじわと頭を覆っていって、私は中で必死に暴れて叫んで……溺れかけた。あの日以来、水に入るのが怖くなった。

 それなのに由香子は、私が「水に強い」なんて言う。

 聡がすかさず、鼻で笑うように続けた。

「そうだよ、おじさん。あの女、絶対演技だって。助けに飛び込ませて、情に訴えて許してもらうつもりなんだよ。いつもそうじゃん、ああやって芝居するの」

 私は聡を見た。

 十月十日、身ごもって産んだ子。何度も何度も思い描いた子。優しくて、勇敢で、正しい子になってほしいと願ったのに。

 保志は以前、私に言った。――聡には、ママを守れる小さな男の子になってほしい、って。

 聡はなったのだ。守るべき相手が、私ではなかっただけで。

 保志と、お父さん、お母さんが欄干のそばに立ち、下を覗き込む。夜が深すぎて、荒れる海面は黒くうねるばかりで、何も見えない。

 保志が硬い声で言った。

「……やっぱり通報しよう。海上保安庁に捜索を頼むべきだ」

 お母さんの声が震える。

「そ、そうよ……万が一、本当に……」

 由香子の表情が変わった。次の瞬間には目尻が赤くなり、涙を滲ませている。

「私のせいだよね。私がいなければ、お姉ちゃんもあんなに興奮しなかった……私、何か本当に間違えた? だから、みんな……私の言うこと、信じてくれないの?」

 その、守ってやりたくなるような顔。

 聡が飛びつくように由香子の側へ行った。

「パパ! おじいちゃん、おばあちゃん! なんで通報なんてするの? あんな女の芝居に付き合ってどうするの! 絶対、岸まで泳いでどこかに隠れてるんだよ。みんなが焦った頃に出てきて、『許して』ってやるんだ!」

 ぽろぽろと涙をこぼしながら叫ぶ。

「……あいつがいれば、僕とママはいらないってこと? ママはみんなにこんなに優しいのに、どうしてママをいじめるの……!」

 その言葉が、全員の逃げ道を塞いだ。

 海人の顔が陰った。由香子を見る目は痛々しいほど甘い。

「……もういい。通報はしない。あいつは騒いでるだけだ。ああやって脅して、俺たちに折れさせたいんだよ」

 お父さんも眉を寄せた。

「そうだ。部屋に戻って休め。明日の朝、岸に着いたら帰る。そのときまで好きに演じさせておけ」

「今回は、絶対に甘やかさない」

 海人の声には、憎しみじみた硬さがあった。

 宙に浮いた私は、その言葉を聞いても何も揺れなかった。悔しさも怒りも、悲しみさえもない。身体が海の底へ沈んだとき、一緒に感情も持っていかれたみたいだった。

 ただ静かに眺めている。

 ……むしろ、少しだけ楽しみだった。私が本当に死んだと知ったとき、彼らはどんな顔をするのか。

 夜は更け、ヨットの人間たちはそれぞれ部屋へ戻った。海人とお父さん、お母さんは集まって、何かを相談している。

「騒ぎたいなら、こっちで片をつけてやる」

 海人がそう言った。

 彼らは、私の代わりに「釈明動画」を撮ることにした。私には精神的な問題があり、由香子を貶める嘘をついたのだと認め、謝罪する――そういう内容。

 お父さんが言う。

「明日の朝、岸に着いたらすぐ流す。これで完全に終わらせる」

 由香子はそばで俯いていた。黙っているように見せながら、口元だけはどうしても押さえきれていない。

 何を考えているか、手に取るようにわかった。

 身元が露見してからというもの、上流の輪は彼女の出自を理由に、本当の意味では受け入れてこなかった。表向きは笑っていても、陰では必ず誰かが囁く。

――でも、明日からは違う。

 私が「自分は精神病だ」と“自分の口で”認めたことになる。由香子は完全無欠の令嬢として立てる。保志の正妻の座も、聡が「ママ」と呼ぶ立場も、すべて盤石になる。

 彼女の人生は、これ以上ないほど明るく、眩くなる。

 きっと心の底から感謝するだろう。あの日、実の両親が彼女と私を取り替えたことに。

 翌朝、空が白みはじめるころ。ヨットはゆっくりと岸へ寄せられた。

 一同は荷物をまとめ、帰宅の車へ乗り込む。車内の空気は意外なほど軽い。お母さんは「帰ったら何をするか」を楽しげに話し、聡は由香子の胸に甘えるように寄り添っている。運転席は保志。

 由香子は窓の外を眺めたまま、勝ち誇った笑みを口元に貼り付けていた。

 そのとき、海人のスマホが鳴った。海人が出る。

「天谷真理奈さんのご家族の方でしょうか」

 受話口から聞こえる声は、硬く、事務的だった。

「海上保安庁です。本日朝、海域にて女性の遺体を発見しました。初動確認の結果、身元は天谷真理奈さんとみられます。至急、安置所にてご確認をお願いいたします」

前のチャプター
次のチャプター