第1章
夜七時半、テーブルに並べられた夕食はとっくに冷めきっていたが、川西隼人はまだ帰ってこない。
私は食卓でさらに十分ほど待ってから、スマートフォンを手に取り川西隼人に電話をかけた。
「夕食、帰ってこないの?」
私は単刀直入に尋ねた。
「麗奈が帰国したんだ。空港まで迎えに行って、そのままパーティーに出る」
彼は私が食事を待っていることなどすっかり忘れているようで、その口調はひどく冷淡だった。
私は短く返事をし、自分の影に目を落とした。
月明かりがマンションの掃き出し窓から差し込み、私の影を長く長く引き伸ばしている。けれど、その巨大な影ですら、この広いマンションを埋め尽くすことはできない。それはまるで私のようだ。川西隼人の所有物であるこのマンションで二年と八ヶ月も暮らしてきたというのに、私は依然としてただの影、立花麗奈の身代わりに過ぎないのだ。
「そうだ、ワインセラーの一番下にあるラフィットを、銀座の『月影』まで届けてくれ」
彼は付け加えた。
「個室名は『桜』だ」
「わかったわ」
銀座『月影』は東京でも最高級の料亭の一つだ。私はその値の張る赤ワインを抱え、従業員に案内されて個室へと向かった。
扉を開ける前、部屋の中からは絶えず笑い声が聞こえ、皆が何かを囃し立てているところだった。
「川西は麗奈のこと、ずいぶん待ってたもんな。大学時代からだろ?」
扉を開けた瞬間、個室内の談笑はぴたりと止み、全員が私を見ていた。その眼差しには、好奇心と軽蔑、そしてわずかな憐れみが混じっていた。
川西隼人は主賓席に座り、その隣には立花麗奈が寄り添っている。彼女は今日、高級なドレスを身にまとい、精緻なメイクが、私と似ていながらもより一層美しい顔立ちを引き立てていた。
さすがは国民的女優。彼女は確かに、私よりもずっと美しい。
彼女は私を見ると、目に一瞬、不快の色を宿した。
「おや、隼人。君のペットが来たようだね」
と、あるプロデューサーが笑いながら言った。
川西隼人は微かに笑みを浮かべ、否定もせず、ただ私の手から赤ワインを受け取った。
「せっかく来たんだから、ワインを開けてちょうだい」
立花麗奈が不意に言った。甘い声色には、拒絶を許さない強引さが含まれている。
「T大卒の才媛のお手並み拝見と行きましょうか」
私が川西隼人に視線を送ると、彼は淡々と私を見つめ、「それじゃあ、開けて注げ」と言った。
私は一瞬ためらった後、ソムリエナイフを手に取り、手際よくコルクを抜いて、一人一人に注いで回った。
立花麗奈の分を注ごうとした時、彼女は突然、目の前の味噌汁をひっくり返した。熱い汁が私の腕に飛び散り、彼女の高価なドレスにも跳ねた。
「あら、ごめんなさい」
彼女は驚いたふりをしながら言った。
「でも、貧しい家の出身なんでしょう? これくらいの痛み、どうってことないわよね?」
私は痛みをこらえ、平静を装って言った。
「はい、問題ありません」
「私の服が汚れちゃった。気に入ってたのに」
立花麗奈は不機嫌そうに眉をひそめた。
「麗奈、服の一枚くらいだろう」
川西隼人は静かに言ったが、その口調は彼女をなだめるようだった。
「君が気に入っていた限定モデルのドレス、もう注文してある」
立花麗奈はそれでようやく満足げな笑みを浮かべ、私に問いかけた。
「どこの大学を出たの?」
「T大学の理工学部です」
彼女の眼差しが、瞬時に冷たくなった。
「本当に残念ね。そんな立派な学歴があるのに、自尊心のかけらもなくて、礼儀も知らないなんて」
「麗奈さんの服を汚したんだから、何かお詫びをすべきじゃないかな?」
立花麗奈のマネージャーが言った。彼女は数種類の酒を混ぜ合わせると
「この一杯を飲めば、謝罪したってことにしてあげるよ」
日本酒とウィスキー、そして赤ワインが混ざった奇妙な液体を見つめ、これを飲まなければ彼らは私を帰してはくれないだろうと悟った。
家に帰って本が読みたい。こんなくだらない付き合いにこれ以上時間を浪費したくはなかった。
私はグラスを受け取ると、一気にその酒を飲み干した。
辛辣な液体が喉を焼き、胃がむかつき、顔が青白くなる。
「みっともない」
立花麗奈は嫌悪感を露わに言った。
「出ていけ」
川西隼人がようやく口を開き、それから手元にあったソムリエナイフを私に向かって投げつけた。
硬い金属が私の額を掠め、一筋の血が頬を伝って流れ落ちた。
彼はわずかに身を乗り出し、私の傷を見ようとしたようだった。
私は血の流れる額を押さえ、彼らに一礼すると、足早に銀座を後にした。
川西隼人が酒と女物の香水の匂いをまとってマンションに帰ってきたのは、深夜二時だった。
「どうして帰ってきたの?」
私は尋ねた。
てっきり帰ってこないものだと思っていた。
彼は答えず、いきなり私を畳の上に突き倒した。
「どんな立場でも俺のそばにいたいと言ったのは、お前だろう?」
彼は嘲るような響きを帯びた声で、低く言った。
「なら目を閉じて、お前の本分を果たせ」
彼は乱暴に私にキスをすると、命令した。
「目を閉じろ」
「お前の鼻先のそのホクロが、お前が彼女じゃないと、いつも俺に思い出させる」
私は従順に目を閉じた。
私たちの間にあるのはただの取引だ。多少の屈辱は、耐えられる限り耐えるしかない。
三年前、私はT大学を卒業したばかりだった。しかし、母方の祖母が突然重い病に倒れ、三千万円もの治療費が必要になった。高額な治療費は私を追い詰め、大学院への進学を諦めさせ、アルバイトに明け暮れる日々を強いた。
川西隼人に出会ったのは、とある居酒屋でアルバイトをしていた時だった。
彼は私を見るなり、一瞬驚愕の色を浮かべ
「君は彼女にそっくりだ」
後になって知ったことだが、彼が言っていたのは立花麗奈のことだった。大学時代から追いかけていた憧れの女性で、当時はアメリカで活動しており、日本に帰国することは滅多になかった。
彼は取引を持ちかけてきた。もし私が大学院進学を諦め、三年間、彼の「愛人」になるなら、三千万円を渡すと。
私は承諾した。祖母の治療費が、どうしても必要だったのだ。
治療を受けたにもかかわらず、祖母は半年後に亡くなった。
私は墓地で一晩中座り込んでいた。川西隼人は傘を差し、雨の中で黙って私のそばに寄り添ってくれた。
それが私たちの関係において、最も温かい時間だったように思う。期限は、一晩だけ。
それ以降の多くの時間、彼は私を格下の代替品として扱った。特に、彼の友人たちの前では。
彼の友人は私がT大理工学部卒だと知ると、嘲笑した。
「T大の才媛が川西の愛人か。宝の持ち腐れだな」
彼らは私に、科学の実験でも披露しろと要求した。
「もし相手が麗奈さんでも、同じことをさせますか?」
私は川西隼人の目をまっすぐに見つめて問いかけた。
彼は激高した。
「お前が何様のつもりだ。彼女と比べられるとでも思っているのか?」
「わかりました」
結局、私はそう言うしかなかった。
この貧富の差があまりにも大きい社会では、貧しい人間の命など安く、ましてや尊厳などあってないようなものだ。
そんなことは、ずっと前から知っていた。
