第2章
立花麗奈は海外で活動していた頃からすでに一流の女優だったが、帰国した今、その人気はさらに加熱していた。
彼女は川西隼人に甘えた声で電話をかけ、有能なアシスタントが足りないとこぼした。
「麗奈がアシスタントを探してる。しばらく彼女を手伝ってやってくれ」
川西隼人はハンドルを指で軽く叩きながら、何気ない口調で私に言った。
彼は私をテレビ局のロケ現場まで送り届けると、そのまま走り去った。
東京の天気は少し肌寒く、空気には都市特有の喧騒が混じっている。
立花麗奈はヒットドラマの撮影中で、私は川西隼人によって臨時で「手伝い」に送り込まれたというわけだ。
「わかった」
私は平坦な声で答えた。
撮影現場では、立花麗奈がディレクターズチェアに腰掛け、周りをメイクやアシスタントに囲まれていた。淡いピンクのドレスを身にまとった彼女は、照明の下でキラキラと輝いている。
少し離れた場所には、準主役の高橋香織が立って、スタッフと話していた。
「この子が新しいアシスタント?」
高橋香織は私を見ると、わざと大きな声で立花麗奈に言った。
「本当にあなたにそっくりね。でも、こっちの方が気品があるかも」
立花麗奈の表情が一瞬こわばったが、すぐにプロとしての笑顔を浮かべた。
「寧子、こっちに来て脚本を取ってちょうだい」
私が歩み寄って彼女から脚本を受け取ると、彼女は突然、驚いたように自分の首筋に手をやった。
「あ、私の翡翠のペンダントがない!」
彼女は叫んだ。
「隼人にもらった誕生日プレゼントなのに!」
彼女はあたりを見回し、セットの端にある池を指差した。「さっきあそこを歩いたから、きっと池の中に落としちゃったんだわ!」
周りのスタッフたちは顔を見合わせる。
「寧子、ちょっと拾ってきてくれるかしら」
立花麗奈は甘い声で言った。
私は水深五十センチほどのその人工池に目をやった。中には数枚の落ち葉が浮かび、水は底が見えないほど黒く濁っている。
私は上着を脱ぎ、ズボンの裾をまくり上げると、水の中へと入っていった。
「あらあら、本当にごめんなさいね」
立花麗奈の口調は申し訳なさそうだったが、その瞳には得意げな光が揺らめいていた。
私は池の中で長い時間手探りを続けた。底の泥がかき混ぜられ、水はさらに濁っていく。指先は冷たさで硬直していくが、それでも私は何度も何度も捜し続けた。ふと、指先に鋭い痛みが走る。麻痺したように手を持ち上げると、指が何かに切られているのがわかった。
以前は、私の手も大切なものだった。ナノマテリアルの研究分野において、手は研究者にとって最も重要な道具だと、指導教官は言っていた。
今、試験管に触れたとしても、その感触を正確に感じ取ることはもうできないだろう。
二時間後、空はすでに暗くなっていた。
「麗奈さん」
一人のメイクスタッフが不意に歩み寄ってきた。
「ペンダント、メイク台の上にありましたよ」
撮影現場は静まり返った。
立花麗奈は一瞬きょとんとしてから、はっとしたように言った。
「あ、そうだったんだ。私の勘違いだったみたい。寧子、もう上がっていいわよ。そんなことしてると、私があなたをいじめてるみたいじゃない。次からは気をつけてね」
私は池から這い上がった。全身ずぶ濡れで、唇は寒さで青ざめている。水にふやけた指は白く、切り傷は肉を覗かせて、少しおどろおどろしく見えた。
誰も私のことなど気にかけていない。
私はびしょ濡れのまま隅に立ち、立花麗奈の仕事が終わるのを待った。
しばらくして、川西隼人の車がロケ現場に入ってきた。彼は車を降りるとまっすぐ立花麗奈のもとへ歩み寄り、彼女の腰を抱いて耳元で何かを囁いている。立花麗奈は甲高い笑い声をあげて彼の胸を叩き、二人は自分たちだけの世界に浸っていた。
川西隼人が踵を返して立ち去ろうとした時、その視線が隅に立つ私を捉え、わずかに眉をひそめた。
「どうして全身濡れてるんだ?」
彼は冷ややかに尋ねた。
私が答えるより先に、立花麗奈が割り込んできた。
「この子が不器用で、うっかり池に落ちちゃったの」
川西隼人は私を数秒間見つめ、その目にはどこか不快な色が浮かんでいた。
「家に帰って着替えろ。風邪をひくなよ」
「はい」と答えるものだと思っていた。だがその瞬間、私はどうしてもその一言が出てこなかった。
私が黙っているのを見て、川西隼人は立花麗奈に小声で言った。
「先に車に乗っててくれ。こいつと少し話がある」
立花麗奈は不満げに車に乗り込んだ。
「何が言いたい?」
川西隼人が問う。
私は少し考えてから言った。
「立花麗奈が帰ってきたんだ。もう身代わりは必要ないだろう。私を解放してくれないか?」
私はまだ、研究室に戻りたいと思っていた。
「考えるな。お前は私の恋人だ。私から離れるなんて思うなよ」
川西隼人は即座に拒絶した。
続けて彼は苛立ったように言う。
「佐藤寧子、拗ねるな。麗奈はわざとやったわけじゃない」
私ははっとした。なるほど、彼は立花麗奈が私に池でペンダントを拾わせたことを知っていたのか。
翌日、川西隼人は私を彼の黒い日産GT-Rのそばへと連れて行った。
「今日から、お前は私と行動しろ」
彼は車のドアを開け、振り返りもせずに言った。
私はその場に立ち尽くし、聞き間違えたのではないかと戸惑った。
「ロケ現場の方は——」
「もう行かなくていい」
彼は私の言葉を遮った。
「昨日の現場の件だが、あれはお前と麗奈の関係を裂こうとした、あの高橋香織の差し金だ。だから麗奈も腹を立てた。もう事務所を通して手を回したから、今後テレビ局があいつをドラマで使うことはない」
私は黙っていた。
高橋香織はただの駒だ。真の首謀者は立花麗奈。
彼も、そして私も、それをわかっている。
「寧子、あまり図に乗るな」
川西隼人は振り返り、鋭い眼差しで私を射抜いた。
「早く乗れ」
図に乗っているわけじゃない、ただ傷口が化膿して熱があるから、今日は体調が悪くて行きたくないだけだ、と、そう言いたかった。
彼と口論しても意味がない。私はうつむくと、素直に助手席に乗り込んだ。
「わかりました」
