第1章
半分だけ閉じた寝室の扉。その隙間から、名取佳奈は夫がひとりで慰めているのを見てしまった。
カーテンは引かれ、部屋は薄暗い。だからこそ、薄井礼央の手元で光るスマホの画面が、やけにくっきりと目に刺さった。
映っていたのは――別の女の写真。
彼が愛して、結局手に入れられなかった高嶺の花。
名取佳奈はドアノブに指をかけたまま、彫像みたいに固まっていた。
今日は、自分の誕生日だ。
しかも、海外のルノワール音楽院から採用の招待が届いたばかりで、薄井礼央にこの吉報を伝えたくて、わざわざ早めに帰ってきたのに。
胸は弾み、足取りまで軽かった。
――それなのに。
ぶつかったのは、こんな光景。
頭から冷水を浴びせられたみたいに、浮ついた心が一瞬で現実に引き戻される。
結婚して三年。彼は一度も彼女に触れなかった。そもそも、愛されていない。
ただ――自分を慰めるその瞬間ですら、須藤唯の写真を見ているなんて、そこまでは想像していなかった。
「奥様?」
階段のほうから、使用人の声が飛んできた。
「……あっ」
佳奈はびくりと肩を跳ねさせる。
我に返った彼女は慌ててつま先立ちになり、寝室の前から小走りで離れた。
「今、上がってきたところよ。どうしたの?」
わざと声を張る。
心臓が暴れるみたいに跳ねていた。
寝室の中から、ささ……と布が擦れる音。続いて、扉が開く。
薄井礼央が出てきた。
シャツもスラックスもきっちり整えられ、髪も一本乱れず撫でつけられている。
端正な顔立ちは少し冷たく見えるが、もともと彼はそういう人だ。
――何事もなかったみたいに。
さっきまでの出来事など、影も形もない。
名取佳奈も、暴くことはしなかった。
「今、帰ってきたの」
自分からそう言うと、息が少し上ずる。
「今日は早いんだな。疲れただろう?」
気遣う声。子どもをあやすみたいな優しさ。
三年間、ずっとこの調子だ。
丁寧で、穏やかで、決して声を荒らげない。
夫婦というより、よそよそしい客同士。仮面夫婦――そんな言葉がぴったりだった。
生活費は惜しみなく渡され、ハイブランドの新作は車で次々と届く。三階建ての家の三フロアが、丸ごと彼女の衣装部屋だ。
金の装飾品や宝石も、部屋いっぱいに溢れている。
働かなくていい。家事もしなくていい。ガラス細工みたいに扱われる。
――けれど。
彼は一度も、真正面から彼女を見なかった。彼女が言ったことも、覚えていない。
夫としての「体裁」だけ完璧で、肝心の愛だけがない。
「うん……早く寝ようかな」
平然を装う。なのに心臓は、肋骨を叩くようにどくどく鳴った。
「まだ五時だぞ?」
薄井礼央が太い眉をわずかに上げる。
「友だちと飲んだから、疲れちゃって」
佳奈は階段へ向かった。いまは一秒でも早く、彼の視界から消えたかった。
「部屋で少し横になるね」
背を向けた、そのとき。
「……誕生日おめでとう」
ぽつりと落ちた声に、足が止まる。
薄井礼央の秘書は毎日、スケジュールを送る。だから彼が佳奈の誕生日を忘れることはない。記念日も同じだ。
差し出されたギフトボックス。箔押しのロゴは見慣れている。
開けると、中にはパテック・フィリップのレディース腕時計。それも最上位のモデル。
「ありがとう」
唇の端を無理やり持ち上げて笑う。
「高いプレゼントね」
でも、好きじゃない。
結婚一年目、彼は山ほど贈り物をくれた。時計、ジュエリー。
佳奈は早い段階で、はっきり言っていた。手に着けるものは嫌いだと。
――左手に障害があるから。
そのたびに彼は誠実そうに謝り、別の新しいプレゼントを用意する。
けれど次もまた、同じものを贈ってくる。
彼は彼女の好みを、まるで覚えない。
やがて佳奈も、何も言わなくなった。
「胃、気持ち悪いのか?」
薄井礼央の心配は本物だった。
「キッチンにホットはちみつを作らせるよ」
「いいの」
佳奈は首を振り、また足を進める。
背を向けた瞬間、堪えていた涙が、ぱらぱらと落ちた。
唇を強く噛みしめ、嗚咽を飲み込む。
最初から須藤唯を忘れられないと分かっていたなら――薄井礼央のプロポーズなんて、受けるべきじゃなかった。
大学時代、薄井礼央と須藤唯は誰もが憧れる眩しいカップルだった。
名取佳奈も須藤唯と同じように綺麗で、同じように優秀だったのに、薄井礼央の目には入らなかった。
片思いは胸の奥にしまい込み、最初から叶わない恋だと、贅沢な望みも抱かなかった。
卒業の季節、須藤唯は突然「海外に行く」と告げた。
薄井礼央は、崖から突き落とされるみたいに振られた。
打ち上げの日。彼は一本、また一本と酒をあおり、酒瓶を取る手さえふらつき、勢い余ってウイスキーをカセットコンロにこぼした。
火が、ぼっと立ち上がる。
直後、ガス缶が爆ぜた。
薄井礼央の隣にいた佳奈は、迷いなく手を伸ばして彼を引き離した。
薄井礼央は無傷だった。
佳奈の左手だけが、三度熱傷。筋肉は萎縮していった。
十数回の植皮。低侵襲の手術。地獄みたいなリハビリ……
それでも、彼女の細い指は二度とオクターブを跨げなくなった。
傷ついた神経は指先を永遠に震わせ、黒鍵と白鍵を正確に押すことを許さない。
K大学で最も輝いていたピアノの新星は、そこで墜ちた。
始まったばかりの芸術人生は、根こそぎ壊された。
薄井礼央は深く罪悪感を抱いた。
大金を渡し、最良の医師を探した。けれど、壊れた人生は元に戻らない。だから彼は、できることなら何でもするつもりだった。
佳奈はその隙に、自分の想いを伝えた。
すると薄井礼央は迷わず、彼女と結婚した。
――いま思えば。
名取佳奈は、自分がとてつもなく滑稽だった。
恩を盾にする道化。時間をかければ薄井礼央も自分を愛してくれると、勝手に信じた。
現実は、三年かけて頬を張っただけ。
ソファに身を沈め、佳奈は疲れ切って目を閉じた。
嫌われる結婚を無理に保つより、品よく退場したほうがいい。
薄井礼央と須藤唯を、成就させよう。
スマホが震えた。親友からだ。
――薄井礼央、留学のこと、同意してくれた?
佳奈は迷わず返した。
「同意はいらない」
「離婚するって決めた」
決断したのに、心は軽くならなかった。
脳が勝手に防御機能を起動したみたいに、いま残っているのは麻痺だけ。
目的もなくタイムラインを流していると、見慣れた名前が飛び込んできた。
#バレエ界のトップ・須藤唯帰国! 溺愛社長の夫が直々にお迎え、顔面がアイドル級!#
タップした瞬間、佳奈の胸に小さな期待が灯る。
須藤唯、結婚したの?
――けれど、盗撮写真を見た途端、心が冷え切った。
その「溺愛社長の夫」は、薄井礼央だった。
佳奈は呆然と写真を見つめ、無理やり笑ってみせる。でも涙は止まらない。
写真の中。
薄井礼央は花束を持ち、少し俯いて須藤唯を見ていた。
その顔には、深く、甘いほどの微笑み。
彼が一人っ子じゃなければ、そっくりな別人だと疑ったかもしれない。
冷淡さは消え失せ、眉も目元もやわらかく、唇の端は上がっている。
名取佳奈は、そんな表情を一度も見たことがなかった。
彼女に向けるのはいつも、礼儀正しい冷たさ。会社の顧客に接するみたいな距離感。
彼は元々そういう人だと、佳奈は信じていた。
――違った。
笑えるんだ。優しくなれるんだ。
ただし、それは彼女にじゃない……。
