第3章
案の定、名取佳奈の期待はまた打ち砕かれた。
薄井礼央は、何ひとつ説明しない。
最後のフレーズを弾き切り、佳奈はピアノの蓋を閉じた。力加減を誤って、ぱん、と乾いた音がやけに大きく響く。
「佳奈、怒ってるの?」
須藤唯がすかさず食いついた。細部を見逃さない目で、さっきの音を拾い上げる。
「ごめんね……私のせいで怒らないで」
「何が怒るほどのことだよ」
すぐに誰かが須藤唯をかばう。
「そうそう、佳奈さん、考えすぎ」
「怒ってないよ。あなた、何も悪くない」
佳奈はピアノ椅子から立ち上がった。返事の声は、どうしても力が入らない。
須藤唯の悪意は、針みたいに細くて見えない。外から見て分かるはずがない。
佳奈にできることなんて、何もない。
須藤唯はぱっと笑って見せた。
「でも、ほんと上手だったよ」
佳奈のそばまで寄り、手を伸ばしかけて……すっと引っ込める。
さっき拒まれたのを思い出したような、触れたら怒られると怯える仕草。
それが余計に、佳奈にいじめられている可哀想な子みたいに見えてしまう。
「こんなに長いあいだ舞台から離れてたのに、ここまで弾けるなら十分すごいよ。落ち込まないで」
にこりと笑う口調は、慰めそのもの。
なのに。
「いまから受験し直したって、絶対うちの学校なら受かると思う」
その言葉を聞いた瞬間、佳奈は胸の奥がひやりと冷えて、同時に笑いそうにもなった。
この学校の卒業生は、その多くが第一線の芸術家になった。自分だけが、入学前の水準にまで落ちている。
そして、そのレベルを褒められる。
佳奈は須藤唯に返事をしなかった。代わりに、薄井礼央へ一度だけ視線を投げる。
彼の面子のために、彼の友人たちの前で、自分の障害を見世物にしろと?
もう無理だった。
佳奈はピアノ椅子の脇に置いていたハンドバッグを掴む。
「用事があるから、先に帰る。みんな、楽しんで」
須藤唯が名を呼んだ気がした。でも佳奈は振り返らない。
背中に貼りつくような視線が、簡単に想像できた。
気が強いだの、メンタルが弱いだの。誰も笑っていないのに考えすぎだの。
最後は決まって、こう言うのだ。
――薄井礼央には釣り合わない。
釣り合わない。だから自分から退く。薄井礼央を、須藤唯に返す。
ひと騒動あって、佳奈はもう飲む気にもなれなかった。
親友にひと言だけ連絡し、帰宅して出国の準備を進めようとする。
ところが玄関を開けた瞬間、リビングに義母の薄井千代子がいた。
「こんな時間に、どこ行ってたの」
結婚してからずっと、薄井千代子は佳奈を気に入らない。
障害がある。子どもを産まない。薄井礼央と並んで上流の席に出られない。
薄井礼央がそのたびにかばっても、薄井千代子の態度は変わらなかった。
「……お母さん」
佳奈はそう呼び、説明する気力を手放した。
薄井千代子も深追いはしない。佳奈に浮気などできるはずがない、と決めつけているからだ。
「こっちに来なさい」
命令口調。
「薬を持ってきたの」
佳奈の背筋がぞくりと冷えた。逃げたい。これは、本当に怖い。
薄井千代子は佳奈の手を「恥」だと思い、本人以上に治したがった。
世界一流の医師が「無理だ」と言っても諦めない。民間療法を漁り、やり方は拷問みたいだった。
生きたヒキガエルを生で食べさせようとしたことすらある。
あのときは必死に薄井礼央へ電話し、どうにか助かった。
だが、それで薄井千代子は激昂し、後日乗り込んできて佳奈の頬を立て続けに三度叩いた。
佳奈はその件を、もう薄井礼央には言わなかった。
「これはね、うちの祖父の代から伝わる処方なの」
薄井千代子が顎で示すと、そばの使用人が白い陶器の壺を差し出した。
「一日三回。いま、ここで一杯飲んでみなさい」
蓋が開いた瞬間、むわっと強烈な悪臭がリビングに広がった。
使用人でさえ眉をひそめ、息を止めるほど。
壺の中は、黒くて粘ついた液体。何が入っているのか分からない。佳奈の喉がきゅっと縮み、胃が持ち上がる。
「早く来なさい!」
薄井千代子が苛立ちをあらわにする。
「お母さん、今日は具合が悪くて……」
佳奈は腹を括った。これ以上、薄井千代子の玩具にはならない。
「また言い訳! 三年よ! 腹は動かない、障害も治らない。顔が綺麗なだけで何の役にも立たない。狐女!」
罵声を浴びても、佳奈の心は波立たなかった。もう麻痺している。
いっそ本当に狐女ならよかったのに、とすら思う。
結婚したばかりの頃、佳奈だって努力した。薄井礼央を喜ばせたくて、セクシーな下着まで買った。
それでも彼は、いつも何かしら理由をつけて拒んだ。
一度だけ。佳奈が彼の膝に跨ろうとしたとき、彼の視線を見た。
薄井礼央は――佳奈の左手を見ていた。
そこに宿っていた感情が何なのか、佳奈には分からない。
美人だと持ち上げられ、スタイルもいい。でも結局、自分は障害者だ。
あの日、佳奈は逃げ出した。ひとりで、長い時間泣いた。
それ以来、二度と自分から求めなくなった。
三年経っても、彼は本当に一度も触れなかった。
「実は……」
薄井礼央と一度も関係がないことを言ってしまえば――と、喉まで出かけた。
けれど遮られる。
薄井千代子が指を突きつけた。
「押さえなさい! 今日は絶対に飲ませる!」
佳奈はぞっとして踵を返し、走った。
だが薄井千代子が連れてきた使用人が、逃がすはずもない。
数歩で腕を掴まれ、引きずられるように薄井千代子の前へ。
「放して!」
近づいただけで臭気が鼻の奥を刺し、胃液が込み上げる。吐きそうだった。
「これは治療なの? それとも私を苦しめたいだけ?」
一晩中押し殺してきたものが、震える声になって溢れ出す。
「私があんたをいじめて何になるのよ! なんて性悪な考え! 私をそんなふうに疑うなんて!」
薄井千代子は怒りのまま佳奈の襟を掴み、もう片方の手で壺を持ち上げる。そして、その中身を口へ流し込もうとした。
佳奈は必死に身を捩った。
その瞬間――押さえていた使用人の力が、ふっと緩んだ。
佳奈の抵抗がそのまま薄井千代子に乗り、薄井千代子はバランスを崩して、どさりと前のめりに倒れ込む。
佳奈が呆然としていると、玄関が開く音がした。
次の瞬間、薄井礼央が大股で駆け込んでくる。
「母さん! 大丈夫か!」
彼が支える間もなく、薄井千代子は膝を押さえて喚いた。
「見なさいよ! あんたのいい嫁は、今日私を殴ったのよ! 明日は私の頭の上に乗る気だわ!」
「病院へ行こう」
薄井礼央は終始、冷静だった。
薄井千代子を起こし、外へ連れていく。
佳奈も慌てて追いかけたが、玄関で呼び止められる。
「お前は来なくていい」
「私……」
殴ってなんかいない。わざとじゃない。
そう言いたかったのに、薄井礼央はもう背を向けていた。
遠ざかっていくテールランプを見つめ、佳奈は夜風の中、ドア枠に縋る。
細い身体が、ぶるぶると震えた。
さっき彼は佳奈を見なかった。けれど声には、抑え込んだ怒気が滲んでいて、背筋が冷えた。
薄井千代子が「殴られた」と叫んだ瞬間、薄井礼央の気配は確かに変わった。こんな怒りを、佳奈は見たことがない。
それでも彼は爆発しなかった。
――あのとき、何を考えていたのだろう。
命の恩人だから、どんなに腹が立っても怒鳴れない?
今日は泣きすぎて、もう涙も出なかった。
佳奈はスマホを取り出し、薄井礼央とのトーク画面を開く。そこに一行だけ打ち込んだ。
「離婚しましょう」
震える親指が送信ボタンの上で止まる。
佳奈は目を閉じ、そのまま押そうとした。
