第4章 私たち、離婚しよう
指先が画面に触れようとした、その刹那だった。薄井礼央からの着信が、先回りするように鳴り出す。
名取佳奈は視線を揺らし、表情の温度を失ったまま着信表示を見つめた。点滅が10秒近く続いて、ようやく通話ボタンを押す。
「医者が言ってた。母さんの膝は大したことない。数日休めばいいって」
佳奈は答えない。スマホを握る指が白くなる。言葉にならない圧が、じわりと周囲に滲み出していく。
返事がないまま数秒。礼央の眉間がきゅっと寄り、声に不機嫌が混じった。
「母さん、山芋粥が飲みたいってさ。今すぐ作って持ってこい。で、面と向かって謝れ」
あまりにも当然の口ぶりだった。
彼女が謝るべきことがあるとすれば、ただひとつ。あのとき、なりふり構わず薄井礼央に嫁いだこと。薄井礼央と須藤唯の間に立つ「邪魔」になったこと。
名取佳奈は、これほどまでに疲れ切った自分を初めて知った。声を出す力すら、もう残っていない。
「佳奈、聞いてるのか」
礼央が苛立ちを隠さなくなりかけた、その直前。佳奈は深く息を吸い、できるだけ平静に聞こえるよう声を整えた。
「……分かった」
プツ、プツ、プツ――
短い返事のあとに続いたのは、耳障りな無音の忙しさだけ。
礼央は迷いなく切った。彼にとって、彼女ともう一言交わすことさえ、貴重な時間の浪費なのだろう。
それでも佳奈は覚えている。須藤唯を相手にするとき、どれだけ甘えられても礼央が不機嫌を見せたことは一度もない。むしろ楽しそうで――それが余計に、胸を冷たくした。
佳奈は唇の端を引きつらせ、重い身体を引きずってキッチンへ向かった。山芋粥を作り、容器に詰め、病院へ急ぐ。
病室の前に着いたとき、中から薄井千代子の怒声が聞こえた。
「そもそもあの子が障害を盾に結婚に持ち込まなければ、あんたがこんなに足止め食うはずなかったのよ! 須藤唯は戻ってきたんだから、さっさと名取佳奈と離婚して、新しい生活を始めなさい!」
薄井礼央は千代子の前に立ち、瞼を落としたまま。低い声には大きな起伏がなく、ただ事実を述べているようだった。
「母さん。佳奈は、俺のせいで障害になった。責任は取らないと」
「責任、責任って……いつまで背負うつもり? まさか後半生まで差し出す気じゃないでしょうね? あの女が本当に分別あるなら、金をもらって出ていくべきなのよ。なのに今みたいに、いつまでもべったり張りついて……気味が悪い!」
甲高く、耳を裂く声。けれど礼央はそれ以上、何も言わない。佳奈を庇う言葉もない。
名取佳奈の足元がふらつき、壁に手をついた。眼の奥がつんと痛む。
「責任」という言葉が、礼央を縛りつけている。――いや、礼央自身でさえ、そう思っているのだ。自分は恩を盾にし、彼の人生を食い潰した、と。
自分がいなければ。礼央はとっくに須藤唯と、誰もが羨む「理想の夫婦」になっていたはずだ。こんなふうに、障害のある女と日々を消耗することもなく。
佳奈は俯いて、自嘲する。
泣きたいのに、目は乾いて鈍い。もう、とっくに泣けなくなっていた。
ただ、疲れた。
この数年、佳奈は礼央との間にある一本の赤い糸を死にもの狂いで握りしめてきた。握っていれば、いつか彼が応えてくれると信じて。
けれど今、ようやく分かった。
ここまでの全部が、ただの独りよがりだった。
そのとき、薄井千代子が先に佳奈の存在に気づき、顔を険しく曇らせた。
「来たなら突っ立ってないで、さっさと入ってきなさい!」
礼央の視線もこちらへ向く。黙って佳奈を見つめるだけで、説明する気配は一ミリもない。
彼にとって、佳奈がどう受け取ろうが――重要ではないのだ。
佳奈は胸の痛みを押し殺し、病床のそばへ歩いた。蓋を開け、山芋粥を薄井千代子へ差し出す。
礼央が軽く咳払いし、目だけで促す。佳奈はその意味を、痛いほど分かっていた。
「……母さん。今日は、手を上げたのは私が悪かったです。ごめんなさい」
ふわりと浮いた声。遠い場所から漂ってきたみたいに、絶望と無力が焼きついている。
薄井千代子は鼻で笑い、佳奈を上から下まで値踏みする。目に宿る侮蔑が、あまりに露骨だった。
「分かってるならいいのよ。これからはね、旦那と姑が何を言っても従いなさい。また今日みたいに口答えして、手まで出すようなら、薄井家はあんたみたいな嫁は置いておけないわ!」
名取佳奈は答えない。無意識に手のひらを握り込み、爪の跡が赤く滲む。
説明して、何になる?
それに――もうすぐ、自分は薄井家の嫁でもなくなる。
礼央は佳奈をちらりと見て、眉をひそめた。
以前なら、佳奈は反論した。弁解もした。なのに今日は、黙り込んでいる。
本当に反省した、とでも思ったのだろうか。
「母さん、俺たちは先に戻る。膝は病院でしっかり休め。付き添いの人も手配する」
礼央はそう言うと、佳奈を連れて病院を出た。
車に乗り込む。だが礼央は運転手に発車を命じず、車外で待つよう指示した。
車内に、しんとした沈黙が落ちる。
佳奈は窓の外の黒い夜景を凝視した。次の瞬間、礼央の低く冷えた声が静けさを割った。
「母さんの性格は分かってるだろ。何を言われても、逆らわずに合わせてれば、そのうち収まる」
名取佳奈の瞳がきゅっと縮む。鋭い爪が掌に食い込み、痛みが走った。
礼央は知っていたのだ。千代子が自分にしてきたことを。知った上で、見て見ぬふりをしてきた。
今日くらいは、少しは味方をしてくれるかもしれない――そんな期待すら、惨めに砕ける。
礼央は誰のことでも守れるのに。自分だけは、守らない。
胸に細い針を何十本も刺されるような痛みが、じわじわと広がっていく。
佳奈はゆっくりと礼央へ顔を向けた。何年も愛してきた男に、自嘲の笑みが浮かぶ。
「……私が何をしても、あなたの中では全部、私の自業自得ってこと? 私が悪い、私が当然ってこと?」
礼央は眉間を深く寄せ、黒い瞳の奥に複雑な色を沈めた。
「考えすぎだ。俺はずっと、お前を妻として扱ってる。夫としての責任も果たす。お前に不自由はさせない」
確かに、礼央は彼女を「困らせて」はいない。衣食住は揃っている。
けれど彼が向けるのは、魂のない視線だった。ただ「夫として」必要な動作をこなしているだけの、空っぽの人形みたいに。
彼の言う「不自由はさせない」は、彼女が「人として生きられる」最低限を保証する、という意味に過ぎない。
そして他人の目には、彼女はもう「ちゃんとした人」ではない。欠けた人間――障害のある女だ。
もう、疲れた。
どこか他人行儀な生活を、これ以上続けたくない。
名取佳奈の睫毛が震える。伏せた瞼の下、眼底の赤が濃く滲み、今にも溢れ出しそうだった。
声はひどく震え、重たい圧を抱え込んだまま、それでも言い切る。
「薄井礼央……離婚しましょう」
